第4回 「放蕩息子の兄」

聖書 ルカによる福音書15章25節~32節

中心聖句  「ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」

  昔から「血は水よりも濃い」と言われますが、その反対に「兄弟は他人の始まり」とも言われます。夫婦・親子・兄弟姉妹たちの良好な家族関係が人類平和の基盤であることを思う者にとって、仲の悪い家族の存在は看過することはできません。

一 不条理の世界

 神は今日の世界70億人の祖としてアダムを創造され、エデンの園に住まわせました。そこで神は、「『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」(創世記2:20b~25)と明言されました。なぜ、神は取って食べると死ぬような木の実をエデンの園におかれたのでしょうか。そもそも「不条理の世界」は創造の最初から存在していたのです。

 次に神はアダムに生涯を共にする伴侶を与えられました。

 「人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう』。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。』」

 初々しくて、仲睦ましいアダムとエバ夫妻の姿が目に浮かぶようではありませんか。しかし、そうした楽しい時間もそう長くは続きませんでした。サタンはへびに化身して、巧妙な誘惑の手をエバに差し伸べてきたのです。そのいきさつは次の通りです。

 「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』。 女はへびに言った、『わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました』。へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。』」(創世記3:1~4)

 エバはへびの巧妙な誘導にまんまと引っかかってしまいました。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」という質問に対しては〝NO〟と答えれば良かったのです。さらにエバは「園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」と答えました。ここに神の言葉に対する歪曲と付加があります。  

 エバの犯したこの罪は神に対する不信の罪であって、禁断の実を食べたという犯罪に対して、原罪というべき罪でありました。

 神は平和なエデンの園に、その実を食べると死ぬような木をなぜ植えられたのか。人間をロボットではなく、善悪を弁えることのできる人間として創造された、という理由付けは理解はできますが、現在の不条理な社会を思うにつけ、理性では納得できても、心情としては何とも言えない、もの悲しさを覆い隠すことはできません。

二 殺戮の連鎖

 神はアダムとエバの間に「アベルとカイン」という可愛い二人の男児を与えられました。彼らはまさに理想的な最初の家族を築くことができたのです。彼らは幸福の絶頂に達していたに違いありません。しかし、悲劇は予期せぬかたちで彼らの家庭を襲いました。兄カインが弟アベルの命を奪うという、という最悪の事件が勃発したのです。その理由となったのが、兄カインが捧げた地の産物は拒否され、弟アベルが捧げた小羊は受納されたことでした。その違いについて、兄カインの捧げ物は血(命)のない植物でしたが、弟アベルの捧げ物は血(命)のある動物であった、と説明されます。

 次の時代になりますが、アブラハムと正妻サラとの間に生まれたイサクと、妾の子であるイシマエルの話は、現在に至るまで大きな禍根を残しています。弟イサクはユダヤの血筋を継承し、イシマエルはユダヤ民族から追放されたアラブの血筋の祖となりました。この両者の歴史は、今日に至るまでユダヤ人とアラブ人、ユダヤ教とイスラム教、さらにはキリスト教も巻き込む歴史的な中東戦争の火種となっています。聖書の歴史はある意味において、民族同士の争い、殺戮の歴史であるとも言えます。しかし、このことは単に聖書の世界、中東の世界に限ったことではなく、洋の東西を問わず、いずれの地域や民族や国家において繰り広げられてきた争いであって、コロナ禍という人類にとって未曾有の危機である現在でもなお繰り広げられている人間の性(さが)、業(ごう)、欲望の為せる現象であります。

三 「放蕩息子の話」の真意

 「福音の本質」の第一回において指摘したように、この話は「三題話」になっていますが、ここで扱われている主題は「失われたものの回復」です。失われたものの主体は「羊、銀貨、人間」。比率は「100分の1、10分の1、2分の1」と異なりますが、失われたものの回復の際には「喜びがある」という点においては三者とも同様です。つまり聖書がこの話において取り扱っているテーマは「生命の尊厳」でありました。特に「放蕩息子の話」においては際立っています。むしろ、羊の話、銀貨の話は「人間の生命の尊厳」を主張するための前座であったことが良く分かります。

 コロナ禍の時代にあって、毎日のように感染者数、重症者数、実効再生産数などが報道されています。総理の口から「国民の命と生活を守る」と言う言葉が、おうむ返しのようにして良く出てきます。さらには「東日本大地震の復興、原子炉の安全性の確認」等々の言葉も一人歩きしています。これらの報道は相対的な数字であって、そこには血の流れている一人ひとりの顔が見えてこない、忘れられている、無視されている、という絶対的な視点からの認識が皆無に近いのです。大切な家族を失った人々にとっては、何年経とうが、何百人、何千人の中の一人ではなく、一人の中の一人を失ったということなのです。

 「放蕩息子の話」には、個人名がありません。つまり、聖書はこの話を特殊な家庭問題として扱っているのではなく、ごく普通の、どこにでもある一般家庭の話として提起しているのです。はっきり言えば日本の、世界のすべての家庭に起こり得る話なのです。

すでに弟息子については解決したことをお話ししましたが、兄息子については未解決のままです。共に考えて見ることにします。

四 アルベルト・シュバイツァー博士

 あまりにも暗いニュースが国内外において毎日報道されています。新規感染者数も増加の兆しが現れています。ワクチン投与が救世主的な役割を果たすかというと、そこにも様々な課題があることも事実です。政財界においてもまことに浅ましい、次元の低い問題が湧出しています。「人の命と生活を守る」という、今こそ世界はこの一点において一致団結して目に見えない感染症に立ち向かわなくてはならない現実にあって、世界の大国同士が自国の覇権争いに躍起となっています。今こそ、そうしたことは一端あと回しにして、コロナの終息に世界が一丸となって立ち向かわなくてはなりません。

 唐突に思われるかも知れませんが、アルベルト・シュバイツァー博士について少しだけ触れておきたいと思います。

 彼は1875年恵まれた牧師の家庭に生まれ、文理両道に恵まれた才能の持ち主であり、「密林の聖者」、「ノーベル平和賞受賞者」として知られています。特に私が注目したいのは、「生命への畏敬」と「人間はみな兄弟」という彼の信念についてです。

 「生命への畏敬」とは、彼の思想と実践の根底にある考え方で、人間をはじめとして生命をもつあらゆる存在を敬い、大切にすることを意味しています。彼は「生命あるものすべてには、生きようとする意志が見出される。この生きようとする意志は、自己を完全に実現しようとする意志である。」と言います。彼はこの事実から出発して、「すべての人が自己の生きようとする意志を大切にすると同時に、自分と生きようとしている他の生命をも尊重しなければならない」と考えたのです。

 「人間はみな兄弟である」とは、人類70億人が緊張関係にある現実の中で、彼の信念はあまりにも理想的、楽観的だと思わないこともありません。「人間はみな赤の他人」という現代、さらにはコロナ禍の中で世の中が分断されつつある現在において、藁にもすがりたいという思いで、私は彼の言葉を噛みしめたいのです。

 コロナ禍において、皮肉にも人類は「新型コロナ感染症」という目に見えない相手と戦う羽目に陥りました。感染状況が毎日のように世界中の現実が手に取るようにして報道されています。私は正直のところ、世界は小さくなったなあ!と感じ取っています。言葉が違い、文化が違い、肌の色が違っても人類は今、共通の課題と取り組んでいることを実感しています。単なるヒューマニズムではありません。「今すぐにではなくても、いつか差別がなくなる可能性がある」という希望の光をシュバイツァーは与えてくれているのです。

五 「放蕩息子の兄」とは、だれか?

 放蕩息子と兄の対比はいろいろな側面から見ることができます。例えば、劣等生と優等生、少数派と多数派、自由人と実直人、情緒派と知的派、罪人と義人、悪人と善人、部下と上司、障がい者と健常者、女性と男性、契約社員と正規雇用者、管理者と被管理者、貧乏人と裕福人等々です。現在社会は以上のような対比において分断されてます。そうした社会にあって、多くの人々は「放蕩息子の兄」の立場に立って彼の不平不満に理解を示すのではないでしょうか。実はその認識において多くの人々は兄息子と同じ問題を抱えていると言えるのです。つまり自らが神から失われた存在であって、自らの人生に対して寂しさを感じつつも、上から目線でもって弱者を見下す立場に立っているのです。

 聖書は「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。」(ローマ3:10~12)と教えています。また「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ3:23~24)と教えています。

 放蕩息子が帰還した際に、喜びの宴会が一家挙げて行われました。しかし、「兄はおこって家にはいろうとしなかった」(28)のです。喜びを共有することができないだけでなく、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」(29~30)と不平をぶちまけたのです。

 兄は少なくとも五点において過ちを犯しました。

 第一点は自己を正当化する傲慢です。

 兄は「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはありません」(29)と豪語しています。果たして私たちは自信をもって自己を正当化することができるでしょうか。そのことによって私たちは知らず知らずのうちに人を裁くという罪を犯しているのです。

 第二点は、父に対して不平を漏らしました。

 兄は「友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことがありません」(29)と不平を漏らしています。これは父親の愛に対する不平、不満の表れです。果たして私たちは本当に神から素晴らしい恵みを頂いていないのでしょうか。

 第三点は、弟に対して偏狭な嫉妬心を抱きました。

 父が弟息子の帰還を祝って「肥えた子牛をほふらせ」(27)たことに対して、兄は「友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことがありません」(29)と、父が弟息子を厚遇することに対して、まことに偏狭な嫉妬心をあらわに示しています。

 第四点は、血を分けた弟を他人呼ばわりする冷酷さです。

 兄は「あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子」(30)と言っています。この言葉には血を分けた弟に対する愛情のひとかけらも感じることができません。現代の家族においても普段は仲の良い兄弟姉妹であっても、いざ遺産相続などの金銭問題が絡んできますと、その関係は険悪になることは、どこにでもある話です。果たして私たちは日々豊かな神の愛に満たされ、感謝の生活を送っているでしょうか。

 第五点は、家族の喜びを共有できない非情さです。

 父は「このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」と言い切っています。ここに失われたわが子の帰還を喜び祝うのは「あたりまえである」と受け止める父親の愛情と、その喜びを家族の一員として共有できない兄息子の非情さとが対比されています。

六 「兄弟の父」とは、だれか?

 傲慢と不平と冷酷と嫉妬心と非情に満ちた兄に対して、父親は豊かな資産の持ち主であり、それがすべて兄に与えられているという事実を、こんこんと語り聞かせています。この譬え話においては「兄弟の父」は、天地創造の父なる神を表しています。

 第一の資産は、「子よ」と呼びかける父の愛です。

 父は「子よ」(31)と呼びかけています。「子よ」という言葉には、兄息子を思う豊かな愛情が満ち溢れています。同じ兄弟なのに、どうして弟の帰還を喜んでくれないのかというもどかしさと、兄息子に対する憐れみの意味さえも伝わってくるような言葉です。

 イザヤは「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」(43:1)と記しています。

 イエスは「ザアカイよ、急いでおりてきなさい」(19:5)と呼びかけています。

 第二の資産は、父なる神の臨在です。

 父は「あなたはいつもわたしと一緒にいる」(31)と諭しています。

 かつて主はモーセに対して「わたし自身が一緒に行くであろう」(出エジプト33:14)と言われました。

 イエスの地上における最後の言葉は「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:10)と言われました。

 主の臨在こそ私たちの最大の資産です。

 第三の資産は、父なる神の豊かさです。

 父は「わたしのものは全部あなたのものだ」(31)と言い聞かせています。

 パウロは「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」(ピリピ4:19)と記しています。

 第四の資産は、父なる神の細やかな心情です。

 「兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると」(28)と聖書は記しています。「なだめる」とは、二つの意味があります。一つは「怒りや不満などをやわらげ静める」こと、二つは「罪などに対して寛大な処置をとる」ことです。父は兄息子の怒りや不満をやわらげ静めたのです。

 聖書は「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」(ローマ3:25~26)と記しています。文語訳では「宥(なだめ)の供物」となっています。ここに「人類が犯した罪に対する寛大な処置」として、神の怒りを宥(なだめ)るために捧げられた「キリストの十字架による贖いの死」の真理を垣間見ることができます。

 第五の資産は、未完の書としての「放蕩息子の話」です。

 この話は未完に終わっています。兄息子が態度を変えたのか、父と兄息子、兄息子と弟息子が和解したのか、そうした動向については一切記載していません。先にも申しましたが、この話は特定の家族の事例ではなく、世界のどこにでも見られる普遍的な家族の問題なのです。従ってこれから未完の書を書き続けていく責任は私たち一人一人にあるということになります。

 キリストは「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。」(マルコ16:15)と大宣教命令を発して天に帰られました。また、「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)のです。

 まさしくこれらの言葉は、私たち一人びとりに託された神の資産であります。

七 アフターコロナの世界を見据えて

 東京オリンピック、パラリンピック組織委員会会長の失言によって、皮肉にも新しい組織委員会のメンバーが世界基準に近いものになりました。そして時代は多様性と個性に満ちた方向に大きく舵がきられようとしています。

 LGBTやジェンダー(社会的性差)の問題は避けて通ることはできません。LGBT(エル・ジー・ビー・ティー)とは、女性同性愛者(レスビアン・Lesbian)、男性同性愛者(ゲイ・Gay)、両性愛者(バイセクシュアル・Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の各単語の頭文字を組み合わせた表現です。これまで「性的少数者」と呼ばれてきましたが、LGBTという呼び方は、「性の多様性」と「性のアイデンティティ」からなる文化を強調するものであり、「性的少数者」に比べて、LGBTの方がより限定的かつ肯定的な概念であると考えられます。

 さらに世界は地球温暖化、海洋汚染、人口爆発、食料危機、自然災害、放射性物質の廃棄、森林破壊、二酸化炭素の排出等々の大きな課題に直面しています。これから50年先を生きる若者にとっては、私たち高齢者が過ごしてきた時代とは全く異なった時代が到来することは必至です。

 そうした中で、一つのアイデアを提供して、今回の記事を終えることに致します。ただそれさえもお役に立つかどうかは、残念ながら保証の限りではありません。

 ヒューマニストであったシュバイツァー博士は次のような言葉を残しています。 

  「楽観主義者には青信号しか見えていません。
  同じように、悲観主義者には赤信号しか見えていません。
  でも、賢者には両方の信号が見えているのです。」

 奇妙なことに、シュバイツァー博士をわが国に紹介した内村鑑三も同じような言葉を残しています。

 「真理は円形にあらず、楕円形である。
一個の中心の周囲に描かるべきものにあらずして、
二個の中心の周囲に描かるべきものである。
あたかも地球その他の遊星の軌道のごとく、
一個の太陽の周囲に運転するにかかわらず、
中心は二個ありて、
その形は円形にあらずして楕円形である。」

 キリスト者の使命は福音を宣べ伝え、人々をキリストの救いに導き、御国の民とすることです。そのために最も必要なことは霊魂への情熱を抱くことではないでしょうか。そして、救霊の喜びという「あたりまえのこと」を、当然のこととして喜び祝うことのできるキリスト者とさせて頂きたいと思います。

 賀川豊彦の最後の祈り

 「日本に救いを! 世界に平和を!」