説 教 題 「とりなしの祈り」   中 島 秀 一
聖書箇所 ヘブル7:23~28

 「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(7:25)

 「この故に彼は己に頼りて神にきたる者のために執成しをなさんとて常に生くれば、之を全く救ふことを得給ふなり。」(7:25文語訳)

 私は毎年、暮れになりますと新年の言葉を待ち望みます。それを元旦礼拝の説教とすると共に年賀状にも掲げました。本日の聖句は今年のために与えられた言葉です。少し遅れましたが、本日お伝えできますことを感謝いたします。
 ヘブル書は著者も宛名も執筆時期も良く分からない書物ですが、旧約聖書の注解書とも言える素晴らしい内容です。7章には大祭司メルキゼデクについて記されていますが、キリストはさらに勝れる、永遠の大祭司であることが強調されています。

 聖書は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と勧めています。
世紀の大伝道者ビリー・グラハムは大会(クルセード)ごとに全世界のクリスチャンに「第一に祈り、第二に祈り、第三に祈り」という執り成しの祈りを求めました。どんなに素晴らしい神のみ業でも、祈りなくして成功したためしはありません。
 祈りには5つの要素があります。
  第1は、主の御名を崇めること。
  第2は、主に感謝を捧げること。
  第3は、罪を悔い改めること。
  第4は、願い求めること。
  第5は、執り成しの祈りを捧げることです。
 この5番目の「執り成しの祈り」は、旧約時代においては「祭司」の勤めでしたが、宗教改革において「万人祭司説」が唱えられ、「執り成しの祈り」は牧師はもとよりすべてのキリスト者に与えられた特権であり、責務であるとなりました。

 改めて本日の聖句を見てみましょう。
 「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(7:25)
 この言葉を中心にしてお話しします。

一 いつも生きておられるイエス

 イエス様はマルタに対して「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われました。

 1 生ける神であるイエス様
 聖書が啓示する神は天地創造の初めから「生ける神」でした。イエス様が弟子たちに対して「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」とお尋ねになった時に、ペテロは、「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)と答えました。

 2 復活・昇天されたイエス様
 イエス様は私たちの罪のために十字架にかかり、三日目に復活されました。イエス様が復活されたことは、イエス様の死が無駄死にではなく、罪と死と悪魔に勝利された強固な証です。聖書は次のように記しています。「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」(使徒1:3)その後イエス様は昇天され、全能の父なる神の右に座られました。

 3 聖霊として降臨されたイエス様  
 イエス様は昇天される前に弟子たちに「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と言われました。母マリヤを初め弟子たちは、エルサレムの屋上の部屋に集まり、「心を一つにして祈っていた。」(使徒1:14)のです。「父の約束」とは、「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。」(ヨハネ14:16-17) 
 「約束の御霊」は、五旬節(ペンテコステ)の日に下りました。聖書はその様子を次のように記しています。「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」(使徒2:1-4)
 聖書の神は「三位一体」であり、「父・子・御霊」の神です。この神は私たちと共に、いつも生きておられるお方です。

二 イエス様のとりなし

 聖書は「神は唯一です。また、神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第一テモテ2:5)と教えています。

 1 とりなしの意味
 「とりなし=執り成し」という言葉は、あまり日常において頻繁に使う言葉ではありません。「執り成し」とは、「双方のあいだに第三者がはいって、悪感情を取り除いたり、互いに都合のよい条件を提示したりして、関係を好転させること」(日本国語大辞典)や、「対立する二者の間に入って、うまく折り合いをつけること」を意味しています。

 2 油注がれた者
 イスラエルにおいては「王と祭司と預言者」には、「油注ぎ」の儀式が行われました。「油」は聖霊を象徴しています。その中で「祭司」は神と人との間を仲保する役割を担いました。
 聖書はイエス・キリストは油注がれた方であり、しかも「王と祭司と預言者」の三つの機能を兼ね備えた方であると記しています。
 ① 王
 「その衣と、もものところには、『王の王、主の主』という名が記されていた。」(黙示録19:16)
 ② 預言者
 「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。」(ヨハネ3:34)
 ③ 祭司
 「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である。」(ヘブル7:17)
 「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第一テモテ2:5)
 「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

 3 祭司の務め
 祭司の務めは、神と民との関係を仲保することでした。具体的には民の罪のために「宥めの供え物」を神に捧げ、神の赦しを得ることでした。しかし、祭司はどこまでも人間でしたから、まず自分の罪の贖いのために「供え物」を捧げることが必要でした。「そこでアロンは祭壇に近づき、自分のための、罪のきよめのささげ物である子牛を屠った。」(レビ記9:8)のです。また「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。」(ヘブル5:1)このように祭司は自分ためのささげ物の必要と任期の制限がありました。しかし、聖書は「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。」(ヘブル7:24)と記しています。

 4 イエス様の祈り
  ① 十字架上の祈り
 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
  ② ゲッセマネの祈り
 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(マルコ14:36)
 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(ルカ22:42-44)

 ③ 天上における祈り
 「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

 イエス様の執り成しの祈りに守られ、支えられ、励まされて日々の戦いを乗り越えさせていただきましょう。

三 神に近づく人々

 聖書は「ご自分によって神に近づく人々」と記しています。

「ご自分によって」とは、「イエス様のお名前によって」、「仲保者であるイエス様を通して」と言うことです。
「神に近づく人々」とは、「神の恵みや祝福や赦しを求める人々」を指しています。聖会において説教者が会衆に対して「恵みの御座=講壇部分」に近づくように勧めることがあります。講壇部分は「至聖所」とされています。
「至聖所」とは幕屋の奥の部分、前の部分は聖所です。至聖所は神が臨在する神聖な部屋で,垂幕で仕切られ,年1回行われる贖罪日に大祭司が入ることが許されています。

 1 裂かれた至聖所の幕
 イエス様が十字架にかかられた際に、神殿の幕が裂け、聖所と至聖所の境がなくなり、自由に往来できるようになりました。聖書はこの様子を次のように記しています。「さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。」(ルカ23:45)

 2 肉体の垂れ幕
 「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」(ヘブル10:19-20)

 3 至聖所に向かって
 信仰は命あるものですから、自ずからそこには成長が伴うものです。「這えば立て、立てば歩めの親心」と願いながら親は子育てをしたものです。
 聖書は「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10:21-22)と励ましています。

四 完全な救い

 最後のポイントになりました。聖書は明快に「完全に救うことがおできになります」と記しています。文語訳は「全く救ふことを得給ふなり」です。この御言葉を聞いて私たちは「アーメン」と応じることができますか。
悪魔はキリスト者を標的にして誘惑の手を延べて堕落させようと働いています。その為に私たちは不信仰に陥ることも、度重なる試練によって神の愛を疑うこともあるかも知れません。「常時喜悦・不断祈祷・万事感謝」の生活を営んでいるでしょうか。時として自分の信仰に迷いが出たり、確信が持てなくなるようなことはないでしょうか。
 でもご安心下さい。イエス様はいつもあなたを覚えて執り成しの祈りを捧げて下さっています。イエス様による救いは不完全なものではなく、完全なものです。イエス様は「神の国の成就」を途中で放り出すことなく、完全にやり遂げられました。イエス様は十字架の上で七つの言葉を語られましたが、その六番目の言葉は「すべてが終わった」でした。この言葉の原語は「テテレスタイ」であって、「支払うべき価を支払った。負債を支払った」とう意味です。つまり私たちが支払うべき罪の価である死をキリストは私たちの身代わりとなって支払って下
さったのです。
 確信に満ちた信仰生活を送る上で、「完全な救い」の内容をしっかりと把握しておくことは大切なことです。
もし、私たちが罪を犯した場合には罪を悔い改め、十字架を仰ぎ見て、罪の赦しを得て、それを確認することが大切です。その確認を何でするかと言いますと、それが「神の言葉」なのです。こうした経験を「御言葉を握る」、「御言葉に立つ」、「御言葉を信じる」、「御言葉をにれはむ(反芻)」と表現します。こうしたことから「御言葉信仰」という言葉が当教団の中で育まれてきたように思います。
 改めて「完全なもの、全きもの」を下記のようにまとめておきましたので、しっかり心に留めて下さい。

 1 完全な贖罪
 「贖罪」とは、罪を贖うと言う意味です。「贖(あがな)う」
とは「本来自分(神)の所有物(人間)であったものが、何らかの理由(堕落)で第三者(悪魔)の手に渡った際に、その品物を代価(血潮)を支払って第三者から買い戻す行為」を意味しています。
 「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:24)

 2 完全な執り成し
 何事であれ仲裁、仲介の作業は難しいものです。仲裁者は双方の立場や状態を十分に理解していないと勤めを果たすことはできません。イエス様は神様と人間の関係をとりもって下さいました。その際、イエス様は高い玉座に座られたお方ではなく、私たちと同じ弱い立場に立たれ、あらゆる苦難を経験して下ったお方として執り成して下さいました。
 聖書は「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」(マタイ11:5)、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(ヘブル4:15)と記しています。
 「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

 3 完全な聖潔
小島伊助先生はペテロ前書の講義の中で「聖潔」の三大動機として次のように教えて下さいました。第一は、召して下さった方が聖なるお方であること、第二は、その為に尊いキリストの血が流されていること、第三は、キリストが再臨されること。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

 4 完全な信仰
  マルチン・ルターは「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ1:17)の言葉に立って宗教改革を敢行しました。
「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。」(エペソ3:12)
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

 5 完全な御国
 天国はすべてのキリスト者の希望です。現世には多くの悩みや苦しみがあります。イエス様は私たちのために天国に通じる道を開いて下さいました。その天国が不完全である筈はありません。
 「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)

次の御言葉をもって結語とします。
「ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。神が許されるなら、先に進みましょう。」(ヘブル6:1-3)