説 教 題:「自分の弱さを誇る」 中島秀一師
聖書箇所:コリント第二 12:1~10

 今夏は例年にない猛暑日が続く中で体調を崩される方々、特に高齢者の方々は体調管理に苦労されたことと思います。また、教会関係者の中で基礎疾患を持たれる方、新たに発病される方、入院される方、手術をされる方、難病を患われる方々が多くおられて心痛めております。主の豊かな慰めと速やかな癒やしが施されますように心からお祈り申し上げております。
 本日はそうした現実を踏まえて、私たちは自らが経験する病気や試練に対してどのように考え、どのように対応すべきかを、パウロの生涯を通して学びたいと願っています。そのことを通してお互いの病気や試練に対する考え方が変わると共に、人生観そのものが大きく転換することを期待しています。

Ⅰ パウロの体験と人物像(1~4)


 パウロは最初に「私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。」(1)と切り出しています。「私はキリストにある一人の人を知っています。」(1)と、この人物は明らかにパウロ自身ですが、あえて第三者のこととして扱っています。

 1 パウロの体験
  パウロが体験した「主の幻と啓示」の内容は、第一に14年前のこと、第二に第三の天にまで引き上げられたこと、第三に肉体のままか、肉体を離れてかは不明であること、第四にパラダイスに引き上げられたこと、第五に人間が語ることを許されていないことばを聞いたこと、などをあげることができます。これらの体験は確かに一般的な事象ではなく、特別な事象であるに違いありません。従ってパウロは「このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。」(5)と述べています。

 2 パウロの人物像(強さ)
 人間は性格として豪快と繊細、強さと弱さなどの二面性を持っています。パウロの場合はかなり明解にその事実を知ることができます。豪快な面としては「ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」(11:25)

 3 パウロの人物像(弱さ)
 「ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」(11:28~30) 
 J・ストーカーは「だれでも、パウロが経た苦難のリストをそれだけ読み、また、どんなにきびしい苦難からもやすやすと立ち直ってもとの働きに返るそのさまを見たりすると、パウロという人はヘラクレスばりの体躯の持主ではなかったかと、自然に思うであろう。ところが、あにはからんや、背丈も低く、体力も弱い人であったらしい。」(「パウロ伝」153頁」)と記しています。

Ⅱ パウロの誇らない理由(5~9a)


 パウロは自分が経験した「主の幻と啓示」について第三者としては「このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。」(5)と明言しています。その理由として次のように述べています。

 1 他人が過大評価しないため
  パウロは「たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。」(6)と述べています。

 2 パウロが高慢にならないため
 「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。」(7)と述べています。この「とげ」が何を意味しているかについては、多くの議論が為されていますが、詳細は不明です。ただ「眼病」の一種であって、「強い近視」であったという説が強いようです。パウロは「ご覧なさい。こんなに大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています。」(ガラテヤ6:11)この言葉は彼の近視を裏付けているように思われます。

 3 神の力が現れるため
 パウロは「この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われました。」(8~9)「私は三度、主に願いました。」とは、単に儀礼的に、三度願った、それで終わったのではありません。彼の願いは「とげ」は取り除かれても、そうでなくても良いと言うような願いではなかったのです。取り除かれるまで彼は何度も何度も祈ったのです。その結果、「しかし主は『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われました。」
 パウロは「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3~5)と記しています。

Ⅲ 自分の弱さを誇る(9b~10)


 パウロの言葉はいつも論理的で分かりやすく書かれています。

 1 弱さを認める。
  9節前半の「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」を受けて、9節後半において「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と自信を持って応じています。この発言は非常に勇気ある、力強い態度を示しています。私たちは身体を壊すとか、病気に罹るということは
一般的には公表したくない事柄です。公表することによって、職場の一線から退くことを余儀なくされ、出世街道に遅れが生じることになります。

 2 弱さを誇る
 弱さを肯定することは敗者のしるしです。しかしパウロは「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(9b)と勧めています。
 「キリストの力が私をおおう」は、口語訳では「キリストの力がわたしに宿るように」となっています。
 パウロは「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」(コリント第二4:7)と記しています。誇るべきは外側ではなく、内側です。

 3 弱さを喜ぶ
 「懐が寂しい」とは貧乏を意味する言葉です。私たちはその反対で「懐が温かい」身分です。「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(12:10)
 私たちの人生には時間的にも、経済的にも、体力的にもその他すべてのことにおいて限界があります。しかし幸いなことには、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。」(ローマ8:10)

人はキリスト者であっても例外なく様々な試練に遭遇します。特に肉体的な病気を患った時こそ、「その時、どうする!」キリスト者の本領が試される時です。「自分の弱さを誇る」人生を歩む者でありたいと願います。