説 教 題:「新生の福音」
聖書箇所:ヨハネの福音書 3:1~16

中心聖句:「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(16)

 本日のテキストは「新生の福音」と呼ばれる箇所です。ここには主イエスとニコデモとの会話を通して「新生の福音」の恵みが記されています。キリスト者の信仰の歩みとして「新生・聖化・神癒・再臨」、「新生・聖化・栄化」と言われています。「新生児」は肉体の誕生を意味し、「新生」は霊的な誕生を意味しています。
 昔、ある人が一人の宣教師に、「先生、あなたはどこでお生まれになったのですか?」と尋ねました。すると宣教師は「私は、ダブリンで生まれ、またロンドンでも生まれました」と答えました。尋ねた人はその意味が分かりませんでした。この話はアイルランドの首都ダブリンで身体の誕生をして、次にイングランドの首都ロンドンで霊的誕生をしたと言う意味です。

Ⅰ.新生に対する渇望(1~2)


 1.ニコデモ
   ニコデモはパリサイ人であり、ユダヤの指導者・政治家・最高法院の議員・教師・学者でもありました。彼には身分も知識も名誉も財産も豊かにありました。素晴らしい夫人や子供たちもいたことでしょう。何の不自由もなく、最高の人生を歩んでいたに違いありません。
 2.イエスとの出会い
 ある夜、ニコデモは密かにイエスを訪問しました。彼には身分や立場上世間の目をはばかる必要がありました。しかし、それ以上にイエスに会いたいという思いがありました。イエスに会った彼は開口一番「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」と言いました。ニコデモはイエスが「神がともにおられ」る方であり、自分の疑問に対して十分に答えてくださる方として大きな期待を込めて話しかけています。
 3.十字架とニコデモ
  ニコデモは聖書には5回しか記載されていません。その中で3回はイエスとの出会いの場、パリサイ人の追求に対する弁護(7
:50)、そして今回の場です。聖書は「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。」(ヨハネ19:39)と記しています。聖書にはニコデモがイエスの弟子になったという記事はありませんが、生涯イエスに好意を抱き、弟子団の外側に位置して重要な役割を果たしたことは想像に難くありません。

Ⅱ.新生に関する問答(3~10)


1.新生の重要性
 ニコデモの挨拶に対してイエスは「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3)と答えられました。ここになぜ新生が重要なのかが明解に示されています。スタートしなくてはゴールに辿り着くことはできません。「千里の道も一歩から」なのです。生まれなくては育つことはできません。新生しなくては「神の国」を見ることはできないのです。
 2.新生の方法
 ニコデモは「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(4)と素朴な質問をしています。イエスとニコデモとの会話が、このようにちぐはぐであると言うことに関しては無理のないことだと思います。それはいかに優れた学者であり、政治家であり、宗教家であると言っても、ニコデモは所詮人間に過ぎない存在だからです。それに比べてイエスは生まれながらの神でありますから次元が違う存在です。話が食い違うのはむしろ自然であると言っても良いのです。むしろ、幼稚さを丸出しにしてイエスから真理を引き出そうとしているニコデモの姿に私は好感を持つのです。
 3.新生の働き
 イエスは「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(5~6)と言われました。これまでイエスとニコデモとの会話がかみあっていませんでした。イエスはこれまで「霊的な生命、内的な生命、永遠的な生命」について語っておられましたが、ニコデモは「肉体的生命、外的生命、この世的な生命」と受け止めていたのです。肉体的生命と異なり、霊的生命は「水と御霊によって生まれなければ」なりません。バプテスマのヨハネは「悔い改めのバプテスマ」を施しました。それでは「水と御霊によって」とは何を意味しているのでしょうか。一般に「水」はバプテスマと解釈されます。しかし、ここでは「人間側の悔い改めと神の側の御霊の働き」と捉えるのが妥当だと考えます。

Ⅲ.御霊による新生(9~16)


 1.新生の意味
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(16) この聖句は聖書中の聖書であると言われます。「永遠の命」という言葉がはじめて記載されている箇所です。因みに「永遠の命」はヨハネ福音書に17回、使徒の働きに2回。「永遠のいのち」はヨハネ福音書に16回、ヨハネ第一に6回記載されています。それでは「永遠の命」とは何を意味しているのでしょうか。この恵みは、新しく生まれ変わったときに、誰にでも与えられる神の賜物です。人間が神に創造された当初から与えられていた生命、それは神の生命であり、イエス・キリストによって与えられる命であります。
 2.新生以前の状態
 人間の人格を形成しているものは、知識、感情、意志の三つです。神が創造の初め、神の姿に似せて人間を創造されましたが、それはこの三つのものが調和した状態を意味していました。しかし人間の堕落以来、これらの調和が崩れてしまったのです。
 ①知識は、傲慢になり、悪のために使うようになりました。
 ②感情は、自分自身でさえもコントロールできないほどに時に激しく、時に弱いものになりました。
 ③意志は、酒、煙草、パチンコ、競馬、競輪、麻雀などにさえも勝つことができない弱いものになりました。それだけではありません。肉欲や性欲や権力欲や金銭欲などの誘惑にも勝つことができないで、家庭や社会を混乱に陥れています。
 3.新生後の状態
こうした罪や弱さが新生の恵みによって以下のように変えられていくのです。
 ①知識は、神を信じる信仰に変えられます。
 ②感情は、神と人を愛するまことの愛に変えられます。
 ③意志は、神の支配される永遠の希望に変えられるのです。

 誰でも一度や二度は、「出来ることなら生まれ変わりたい」という願望を抱くものです。もっとお金持ちの家に、頭の良い家に、美男美女の親の家に生まれたかった、と言った外形上の願望があります。もっと心の優しい人に、素直な人に、人を愛する人に、人から愛されたい・・・等といった内面上の願望があります。さらには自分の見栄っ張りなところが嫌い、人と比べて妬ましく思う自分が嫌い、自分の性格が嫌い・・・だから生まれ変わりたい、と言った願望を多くの人が抱いています。しかし、最大の願望は神の願望です。聖書は「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテ第一2:4)
 神の願望に応えられたことを感謝すると共にさらに、多くの方々が救いに導かれるように祈りましょう。