説 教 題:「マケドニアの叫び」         中島秀一

聖書箇所:使徒の働き 16:6~18

 私たちは去る5月28日に聖霊降臨日(ペンテコステ)を迎えました。この日に聖霊は降臨されました。この日以来、三位一体の神の枠組みが変わりました。これまでは「主イエス」が表に位置しておられましたが、この日以降は「聖霊」が表舞台に立たれるようになりました。新改訳は「使徒の働き」ですが、口語訳は「使徒行伝」でした。先輩牧師たちは「聖霊行伝」とも読んでいました。著者は「ルカ福音書」を書いた「ルカ」です。したがって本書は「ルカの福音書」の後編と言えます。

「使徒の働き」の鍵の言葉は、
 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(1:8)です。この言葉は「使徒の働き」における弟子たちの活動範囲と使命を表したものです。分解すれば次のようになります。

1 エルサレム             1章~ 7章
2 ユダヤとサマリアの全土       8章~ 9章
3 地の果てまで(カイザリア~ローマ)10章~28章

 この使命と約束は主イエスの弟子たちに向けられたものだけでなく、キリストによって救われたすべてのキリスト者に向けられた命令であると受け止める必要があります。「使徒の働き」は新約聖書唯一の歴史書です。弟子たちによる伝道の記録が記されています。その中でパウロによる伝道の記録が多く記されています。パウロは生涯において三回に亘って伝道旅行に赴いています。今日のテキストは第二回伝道旅行中に起こった出来事です。改めてテキストを見てみましょう。

 「その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、『マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」

 パウロは第二回伝道旅行をアンテオケ教会から出発して、アナトリア半島(トルコ・小アジア)を西北に進み、ビティニア(黒海方面)に行く予定でした。しかし、イエスの御霊がそれを許されなかったのです。それで反対側のトロアスに下ったのでした。つまりマケドニアを見渡すことができる地、エーゲ海を挟んで見えるヨーロッパを前にして彼は立ったのです。そこでパウロは「マケドニア人の叫び」を聞いたのです。すべて御霊の導きに従った彼の行動でした。 

 改めて私たちの現状を考えてみましょう。私たちに「マケドニアの叫び」が聞こえるでしょうか。ユダヤ人であるパウロが、ヨーロッパ人の声として「マケドニアの叫び」を聞くと言うことは「地の果て」の人の声を聞くことを意味しています。その当時の世界では、ヨーロッパは「地の果て」を意味していました。現在では地球は丸いものですから、地理上ではどこが中心でどこが地の果てかは一概に言うことはできません。ただ文明とか、経済とか、科学技術などを考えますと、それなりの中心的な役割を果たす国々は限られてきます。
 改めて私たちとっての「地の果て」とは何を表し、何を意味しているのかを考えて見ましょう。単純に考えれば「地の果て」とは地理的に一番遠い所です。ところが面白いことに、一番近い所でもあるのです。つまり左回りしても、右回りしても行き着くところは「私自身」が立っている場所なのです。

 パウロはその夜、「幻」を見ました。「夢か現か(うつつか)幻か」ではありません。彼の見た「幻」は彼のビジョンでした。エーゲ海を隔てたマケドニア人の叫びを聞いたのです。そして彼らの救いを見たのです。それは小アジアから見ればそこはヨーロッパであり、地の果てでした。私たちにとって「マケドニアの叫び」とは何を意味しているのでしょうか。

 今年は新教渡来164年になります。しかし未だにクリスチャン人口は全人口比0.88%、プロテスタントでは0.44%にすぎません。つまり救われていない人々が私たちの身近なところに大勢おられるのです。あなたの家族や親族、友人や知人はいかがでしょうか。私たちは彼らの声なき声、「マケドニア人の叫び」に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。
 パウロは「マケドニア人の叫び」を、彼の「幻=ビジョン」として見たのです。それはマケドニアの人々が実際に叫んだのではありません。パウロの「マケドニアの人々」に福音を伝えたい、救われて欲しい、という霊魂への情熱が、「マケドニア人の叫び」という「幻=ビジョン」として実現したのです。

 わが国の宣教は全世界を巻き込んだコロナ禍の影響でその宣教は大きく低迷しました。その間、対面礼拝に加え、ZoomやYouTubeによる礼拝が登場して、礼拝参加者数の維持に大いに効果を発揮しました。しかし、皮肉にもその方策が定着して、対面礼拝がコロナ禍以前の状態に戻っていないのが実状です。
 こうした状況を私たちは不利と考えないで、こうした状況であればこそ、「マケドニア人の叫び」に耳を傾ける絶好の機会であると捕らえたいものです。そのために基本となるべきことを三つほどあげておきます。

Ⅰ 約束の言葉を信じて祈る。


 キリスト者にとっての一番の願いであり、責任でもあるのは、家族の救いです。その際、家族の救いを一番願っておられる神は私たちに素晴らしい約束の言葉を与えて下さっています。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16章31節)です。

 ある未信者のご主人は、この言葉を都合良く解釈して、「妻がクリスチャンだから、夫である自分も救われている」と言っておられました。その解釈は間違っていますが、神の救いに一番近い人であることは確かなのです。夫が信者であれ、妻が信者であれ、神は夫婦をこよなく愛しておられるのです。しっかりと神の約束の言葉を握ってその実現を祈り深く待ち望むのです。

Ⅱ 幻を持つ


 パウロは主イエスの言葉を信じ,従っただけでなく、多くの人々に福音を伝えました。伝えた人々が救われるか、救われないか、と迷わないで必ず救われるという「幻=ビジョン」を持って伝えたのです。
 私の母は21才の時に中島家の長男の嫁として嫁いできました。嫁ぎ先は熱心な仏教徒の家庭でした。私が献身した際には男の子だから何か職業を持つ必要があると、余り驚きませんでした。しかし、末の妹が献身を表明した時にはこれはただ事ではないと驚いたそうです。そして私が卒業する年に52才で信仰を告白して洗礼を受けました。
 その間,私はずっと一つの「幻」を抱いていました。その「幻」とは、母親が「姉さんかぶりで、手箒」を持って礼拝堂を掃除している姿を夢見ていたのです。
 ある夫人は他の方々が救われても、私の夫だけは救われない。ある主人は他の方々が救われても私の妻だけは救われない。ある親たちは他人の子供が救われても、自分の子供たちは救われないなどと、変な確信を持っている方々がおられます。私たちは全能の神を除外して自分の愚かな確信を固守することほど愚かなことはありません。

Ⅲ 聖霊に導かれる


 「聖霊」は三位一体(父・子・御霊)の神の一翼を担われるお方です。特に「聖霊降臨」以降における聖霊は「キリストの霊」として、歴史の舞台の前面に立って働かれる神です。別名は「慰め主、助け主」と呼ばれます。聖書は「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(コリント第一12:3)と記しています。しかし積極的に考えれば、「聖霊によるならば、すべての人々は『イエスは主です』と告白することができるのです。」となります。
 良く「聖霊」について意味が判らないとう人がおられます。礼拝の最後に「父・御子・御霊のおお御神に」という頌栄を捧げます。「御霊=みたま」が、仏教的な印象があるので、ある歌集では「父・御子・聖霊」となっています。「聖霊」であっても違和感を覚える方もおられると思います。「聖霊」は天地創造の初めから三位一体の神として存在しておられました。ただその働きから言えば旧約時代は「父なる神」、新約の30年間は「子なる神」、そして聖霊降臨後から現在までは「聖霊なる神」が中心になって働いておられます。「聖霊」は私たちと共
におられ、また内におられる霊なるお方です。「霊性の状態」は個人差がありますから一概には言えませんが、私たちの「霊」は「良心」と近しい関係にあると思われます。

「マケドニアの叫び」の幻を見たパウロは神の召命を確信して、彼らに福音を伝えるために、ただちにマケドニアに渡ることにしました。あなたは、あなたにとっての「マケドニアの叫び」を聞かれたでしょうか。あなたが祈らなくては、あなたが伝えなければ、あなたが具体的な行動を起こさなければ、生涯、
福音に接する機会のない人々がおられることを確認されましたか。神は決してあなたにパウロのような働きを期待しておられるのではありません。一枚のトラクトを送ること、一枚の葉書を送ること、自分の救いの証を書いて送ること、親しい友人に電話をかけること、許されるなら訪問すること等々。伝道とは大きな集会を開くことではなく、あなたの救いの証しを伝えることなのです。
 だれもパウロの真似はできません。しかしパウロに働かれた聖霊も私たちに働かれる聖霊もみな同じ聖霊です。パウロの見た「幻=マケドニアの叫び」を私たちも見せて頂こうではありませんか。聞かせて頂こうではありませんか。あなたの家族、友人、知人、近隣の人々が発信している「マケドニアの叫び」をしっかりと捉え、応える人々が当教会の中から起こされることを願って止みません。