説教題:「内住のキリスト」         中 島 秀 一 師
聖 書:コロサイ1章24節~27節

 「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1章27節)

 日本イエス・キリスト教団は今年創立70周年を迎えました。本来ならば「記念大会」が行われる筈でしたが、残念ながらコロナ禍によって、11月3日(文化の日)にオンラインで、しかも時間も短縮して半日で開催される予定です。
 これまで二回に亘って教団の大切にしてきた「聖句=御言葉」を紹介してきましたが、今回は三回目として、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」を取り上げます。「聖潔(きよめ)を表す言葉には、聖霊のバプテスマ、聖霊の満たし、第二の恵み、全き愛など幾つもありますが、私たちの教団では「内住のキリスト」が代表的な言葉の一つです。

Ⅰ 奥義であるキリスト

 奥義(おうぎ・おくぎ)とは「秘められた真理」を意味しています。それは人間の知識や経験、あるいは力や修養などでは、到底理解したり、把握したりすることができないものを表しています。
 聖書は「すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義」(コロサイ1:26a)と記しています。
 「世々の昔」とは旧約時代、人類の堕落直後を意味しています。そして「隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義」とは「救世主=メシア」の実現を意味しています。旧約聖書は「メシアの来臨を預言」し、「新約聖書はメシアの来臨の成就」を記しています。具体的には次のことを通して成就しました。

1 受肉降誕
 「受肉降誕」とは、「神が人として降誕された」という意味です。
「受肉降誕」は処女マリヤに対する「受胎告知」から始まりました。
その告知は処女マリヤには受け入れることのできない内容でした。「御使は彼女に答えた。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。』」(ルカ1:35)と伝えると、「マリヤは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。』」(ルカ1:38a)と受諾したのです。

2 十字架と復活と昇天
 キリストの生涯は苦難の連続でした。聖書は「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6~8)そして3日後に、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Ⅰコリント15:20)

3 聖霊の降臨
 復活されたキリストは昇天後10日目に「キリストの霊」としての聖霊が降臨されたのです。それ以来、時代は「聖霊時代」を迎え、神の御業はすべて聖霊が関与されます。例えば、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3b)、「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」(ヨハネ16:13a)以上はキリストが「神の奥義」であったことを証しするものです。

Ⅱ 内住のキリスト 

 スウエーデンの児童文学作家ウルフ・スタルクに「小さくなったパパ」があります。絵は旧知の秦好史郎氏です。パパは息子トーマスと一緒にプラモデルを制作していました。突然トーマスが「どうして大人は遊べないの」と聞きます。「遊ばなくなったのはいつ頃だろう?」。パパは流れ星にお願いして、一日だけ子供になりました。その後トーマスと共に奇想天外な遊びの世界が展開します。トーマスはパパとは知らないので、パパはトーマスより一足先に家に帰って大人に戻り、トーマスと共に遊ぶことのできるパパになりました。
 この話を通して私は「小さくなられたキリスト」に思いを馳せておりました。

 「内住のキリスト」についてよく知られる聖句があります。
 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19b~20a)この言葉は「聖潔(きよめ)」を代表する聖句です。私は「内住のキリスト」について、もう一方の観点から考えたいと思っています。キーワードは「相互内住」です。
 聖書は「内住のキリスト」の真理を私たちが理解しやすいように、様々な関係を通して教えています。

1 ぶどうの木と枝(有機的な関係)
 第一は、「ぶどうの木と枝」という有機的な関係です。イエス様は「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実をむすぶことはできません。」(ヨハネ15:4)と言われました。

2 イエス・キリストの贖い(生命的な関係)
 第二は、「イエス・キリストの贖い」という生命的な関係です。
 イエス様は「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。」(ヨハネ6:55~56)「肉を食べ、血を飲む」とは、イエス・キリストを信じることに他なりません。

3 全き愛(本質的な関係)
 第三は、「全き愛」という本質的な関係です。「愛」は神の本質です。聖書は「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(Ⅰコリント13:1)、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(Ⅰコリント13:13)「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)と記しています。聖書は「相互内住」について「全き愛」という観点から次のように記しています。
 ① 「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(Ⅰヨハネ4:12)
 ②「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」(Ⅰヨハネ4:13)
 ③「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」(Ⅰヨハネ4:16)

Ⅲ 栄光の望

 聖書は、「内住のキリストが栄光の望」であると記しています。つまり希望である、しかも栄光に満ちた希望だというのです。この世の中にはコロナ禍をはじめとして、天災、人災など余りにも暗い、悲しい、痛ましいニュースで溢れています。人類には希望があるのでしょうか。

1 天の御国への希望
 幸いなことにキリスト者には栄光に輝く天国への希望があります。「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4b)

2 栄化への希望
 聖書は「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:21)と記しています。

3 主と共なる御国への凱旋
「内住のキリスト」は私たちから出入りされる方ではありません。聖書は「御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18b)「御霊によって歩き、御霊に導かれ、御霊によって生き、御霊によって進む」(ガラテヤ5:16~25参照)、つまり聖潔(きよめ)に徹底することによって、「内住のキリスト」と共に御国へと凱旋することができるのです。

 「信任、信頼、信用、信仰」、「入り込んで、もたれかかって、空身になって、あてにする」 これこそ聖潔(きよめ)られた、聖霊に満たされた、「内住のキリスト」信仰に立つキリスト者の姿です。

(2021.10.17)

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