聖書各巻緒論39・預言書17 
説 教 題:「メシアによる勝利」  井上義実師
聖書箇所:マラキ4:1~6

聖書各巻緒論として各巻を1回ずつで語ってきました。聖書を新改訳2017に切り替えた2021年度から始めました。2021年5月16日の創世記が第一回です。本日の2022年度最後の礼拝で旧約聖書39巻を終えます。聖書の各巻を読まれる時に少しは参考になったでしょうか。少しずつ、神様を知る知識を増し加えていただきたいのです。地道な努力ですが、必ずや正しい知識は正しい信仰につながっていきます。周囲のできごとや、感情に振り回されない、豊かな信仰の裏付けになっていきます。

Ⅰ.神様への問い


 預言者マラキは旧約聖書の並び順の通り、ハガイ、ゼカリヤの少し後になります。その内容から見て、ネヘミヤとほぼ同時代ということになるでしょう。
エルサレム神殿は既に再建されていました。エルサレム神殿再建によって、イスラエルの民は恵みに感じて信仰へと歩んでいたのでしょうか。そのように考えるのが普通でしょう。しかしこの時、民は生活に困窮していました。不信仰・不真実に陥り、神様を疑う、冷たい心を抱いていました。
聖書に不信仰が出てくることに驚かれる方もあるかも知れません。聖書には模範とされるような信仰者もあれば、悪例・反証となるような不信仰な人たちも少なくありません(アブラハムに対してロト、モーセに対してイスラエルの民、11人の弟子に対してイスカリオテのユダ…)。
マラキ書には3つの不信仰な問いかけが出てきます。
1)神様の愛に対して(1:2)「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」
2)神様の義に対して(2:17)「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか。」
3)神様への信仰に対して(3:14)「神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前に悲しんで歩いても、何の得になろう。」。神の民が疑いとつぶやきの状況に陥っていました。

Ⅱ.神様の回答


 神様は不信仰という背信のイスラエルに対して(2:17)「主を疲れさせた。」と言われながらも、一つ一つに答えられました。
1)神様の愛は注がれています(1:2~5)。ヤコブとエサウ、後のエドムを比べてイスラエルへの愛は不動であることが述べられています。
2)神様の義は現されます(3:1~5)。やがて主が来られて不正な者を裁かれると約束されています。
3)神様への信仰は報いられます(3:16~18)。正しい人はあわれみを受け、宝とされます。
神様を信じることは決して空しくないことを論証されています。神様はアブラハム以来の祝福の約束を、変わることなく成し遂げてくださいます。イスラエルに民が不真実でも、慈しみとあわれみを持たれる神様なのです。
私たちを愛されるイエス様は(テモテ第二2:13)「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」という御方であす。神様はマラキの時代も、今の私たちへも真実を尽くされる御方なのです。

Ⅲ.神様が示される終末


 マラキは旧約聖書に記されている最後の預言者として奉仕しました。特に最後の4章は新約聖書へとつながっていきます。4:5・6の「預言者エリヤ」はバプテスマのヨハネを指しています(ルカ1:17)「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」。イエス様の道備えとして、ヨハネは奉仕し、イエス様はご自分を世に現わされました。
十字架と復活によって、救いの業を成し遂げられたイエス様は、再び来られて、悪を滅ぼし全てを新しくされます。その日には私たちの感謝と喜びがあります(4:1~3)。マラキの預言はイエス様の降誕を越え、さらに完成を目指しています。神様は真実な御方であるからこそ、この約束はやがての日に完成するのです。

 マラキ書は旧約聖書の最後に相応しい内容を持っています。私たちも信仰を強くし、力をいただいて御前に歩むものとされましょう(へブル10:19~25)。