説 教 題:「神様にある祝福」聖書各巻緒論(5)    井上義実師
聖書箇所:申命記30:11~20

聖書各巻の緒論を始めましたが、その第五回となります。旧約聖書の最初の区分に当たるトーラー・律法の書が申命記で閉じられます。

Ⅰ.基本的なことがら

●著者:伝統的な受け止めとしてモーセ(モーセ五書の第五巻)
「申命」という言葉は重ねて命令するという意味です。モーセが天に帰る前に、イスラエルの民に神様の使信、戒めを改めて語り聞かせます。申命と言う言葉は、日本より先に翻訳聖書が完成していた中国の漢語です。申命記から2巻後の士師記の士師も漢語です。これらの言葉は明治初頭に受けた漢訳聖書の影響を、今も残しているのです。本書の冒頭1:2にあるように、荒野の40年が後1か月で満ちようとしていました。モーセがイスラエルの民に、この申命記の説教を語るのに7日間を費やしたという伝承があります。

執筆年代:出エジプトの年代を早期説としてB.C.1450年頃。

大区分:1~30章 モーセの説教(1)1~4章
           モーセの説教(2)5~26章
           祝福と反祝福 27~28章
           モーセの説教(3)29~30章
     31~34章 荒野の40年間の終幕 

Ⅱ.基本的なメッセージ:「律法の書の締めくくり」

 モーセ五書の内、最後の書巻となり、結語となります申命記は、締めくくりとしての重要性を帯びています。イエス様が、律法の第一のものと語られています(マルコ12:28~33他)のは、心、いのち、知性、力という全てを尽くして神を愛すること(申命6:4~5)、隣人を自分と同じように愛すること(直接にはレビ19:18、申命記にも同じ思想が流れています)です。これは、申命記の復命となります。

 ユダヤ人の家庭教育の根本にある「シェマー」(信仰告白と言える)は、申命記6:4~5が中心になります。イエス様が、公生涯の始まりに悪魔の誘惑に会われた時、イエス様が悪魔に対抗された御言の引用は、3回ともに申命記からの引用でありました。かつて、アダムとエバはエデンの園で誘惑に負けてしまいました。イスラエルの民は荒野で、多くの失敗を犯しました。しかし、イエス様は悪魔の誘惑を退けられ、勝利され、その生涯を通して律法を全うされた御方です。律法の書は、この申命記で閉じられますが、イエス様によって私たちは律法の成就に与らせていただく者となりました(マタイ5:17~20)。

Ⅲ.基本的なメッセージ:「神様の教えの明快さ」30:11~20

 神様は律法を授けられましたが、複雑な、難しい、厳しい教えを命じられてはいないのです。この聖書箇所において、「難しすぎる」「遠くかけ離れたもの」「天にある」「海のかなたにある」ものではなく、「すぐ近く」「口にあり」「心にあって」「行うことができる」(11~14節)とあります。その結果も、「いのちと幸い」「死とわざわい」(15節)とあるように、明快に示されています。

 世間的、一般的なキリスト教のイメージは、高尚な、観念的なというものもあろうかと思います。「あなたはいのちを選びなさい」(19節)に御心は示されているのです。神様に背くこと、反することは死と災いを招くものです。しかし、神様の恵みと愛、あわれみは確かです。その間にあって、低きに流れやすい私たちにとって、恐れではありませんが、ある程度の緊張感は必要とされます。偉大なる神様を前にして、畏れかしこむ者であるのです。      

 申命記は私たちに神様に従う道を教え、祝福と恵みを語っています。申命記は、またモーセに与えられた数々の預言の言葉が残されている書です。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。」(18:15)とありますが、やがて起こされるのはイスラエルの歴代の預言者であり、最終的にはメシア・救い主イエス様を指しています。イエス様が十字架へと向かわれる中で、変貌山(マタイ17章他)のできごとが起こります。あの光り輝く山上にモーセとエリヤは神様の使者のように登場します。モーセとイエス様、律法と福音は、離れ離れにあるのではなく互いに結び付いています。申命記を身近なものとして読むことができるのです。

2021.6.20