説 教 題:「栄光の御国を目指して」        中島秀一師
聖書箇所:レビ記23:34~44


中心聖句:
 「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:20~21)

 
 ユダヤ社会には多くの祭りがありますが、その中で過越の祭・七週の祭・仮庵の祭は三大例祭として重要なものです。本日は「仮庵の祭」について考えます。

Ⅰ 霊性の段階

 聖書はキリスト者の霊性について幾つかの段階を示しています。

1 三種類の人


 
 私は若い頃、オズワルド・J・スミスのメッセージを通して大きな感化を受けました。彼は「三種類の人」と言う主題で、「キリスト者はナイル川とヨルダン川の二つの川によって、三種類に分けることができる。すなわち、『生まれながらの人、肉の人、霊の人』である。」(参照・Ⅰコリント2:14~3:1)と明解に話されました。

 2 義認・聖化・栄化



 この度、「みことばに生きる=聖書は妙なる生命の書」増補改訂版を刊行する運びとなりました。初版ではローマ書が八章まででしたが、今回は十六章まで加えて完結しました。ローマ書はガラテヤ書と共に聖書の教義の要です。そこでパウロは「罪悪論・義認論・聖化論・栄化論、選民論・倫理論など」を書いています。

 3 新生・聖化・神癒・再臨



 中田重治が提唱した「ホーリネス教会」の信仰の要は、「四重の福音」と呼ばれています。バックトンの弟子の一人であった柘植不知人の信仰も同様でした。彼は「四重の福音」を標榜して「活水の群」を興しました。日本キリスト教団渋谷教会はその中心的な存在です。

4 ユダヤの三大祭


 
 ユダヤの三大祭もキリスト者の霊性を表しています。「過越の祭」はユダヤ人がエジプトの奴隷から解放される大きな契機となりました。すなわち過越の祭はキリスト者の救いのひな型です。「七週の祭」は聖霊の降臨日に当たりますので、キリスト者の聖化のひな型です。
 ユダヤ民族はエジプトを脱出後、短時日で約束の地に到着できる筈でしたが、不信仰のために40年間を要しました。しかし、「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」(出エジプト13:21~22)のです。そのため、彼らは幾多の困難を乗り越え、約束の地カナンに向かうことができたのです。モーセはこの史実を風化させないために「仮庵の祭」を制定しました。「仮庵の祭」はキリストの再臨、キリスト者の栄化のひな型です。

Ⅱ 「仮庵の祭」

 1 その特異性



 「仮庵の祭」について、モーセは「あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。」(レビ23:42~43)と記しています。
 しかし実際に行われたのは、約700年後のバビロン捕囚から帰還した時でした。聖書は「そこで民は出て行き、枝を取って来て、それぞれ自分の家の屋根の上や庭の中、また神の宮の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に、自分たちのために仮庵を作った。捕囚から帰って来た全会衆は仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエルの子らはこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。」(ネヘミヤ8:16~17)と記しています。
 「仮庵の祭」だけでなく、すべての例祭は過去の遺物として存在するものではありません。現代のユダヤ社会では、すべての秩序の最も信頼する規範として守られています。また、キリスト者にとって「仮庵の祭」の持つ意味を弁える必要があります。実は「仮庵の祭」には、メシア(キリスト)による人類救済の秘儀が隠されているのです。

 2 その本質



  聖書は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)と記しています。福音(良い訪れ)は、「神が人となられた」ということであって、「王様が長屋に住まれた」とは、全く次元の異なる出来事なのです。「仮庵の祭」は、「イエスが地上に来られたことを象徴する祭」ではなく、「仮庵の祭」の本質であるキリストの御名を誉め頌え、み業に感謝する祭こそが、真の「仮庵の祭」なのです。

 3 その理解



 聖書は「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる。」(ゼカリヤ14:16)と預言しています。ここで言われている戦いが千年王国以前の争いか、最終戦争かは分かりませんが、キリストが再臨されて世界が平穏になった際に、そこに人々は「仮庵の祭」を祝うために集まってくる、というのです。このように考えますと「仮庵の祭」というのは、単にユダヤの三大祭りの一つと言うよりも、世の終末、キリストの再臨、千年王国、キリスト者の栄化などと深い関係のある重要な祭儀であることが理解できるのです。もう一つのことを記しておきます。
 聖書は「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示21:3~4)と記しています。「神の幕屋」とはイエス様のことです。因みに、御霊様(黙示21:10、22:17)も共に居て下さるのです。

Ⅲ 栄化の恵み


 「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:20~21)

 Ⅰ 国籍は天にあり



 「国籍」は「本籍」であって、出生の場所、本来の私たちの居場所を意味しています。従って今住んでいる場所は、単なる、一時的な場所であって、永久に生む場所ではありません。やがて主は私たちを本籍=国籍に迎えるために、おいでになるのです。そのことを再臨と呼ぶのです。

 2 卑しいからだ



 「卑しい」とは、見苦しいとか、不完全という意味ではなく、本来土で造られた器なので、限界があるという意味です。昨今は人生100年時代と言われますが、多くの高齢者が健康で日々を送っている訳ではありません。むしろ、心身共に多くの病気や弱さと戦っているのが現実です。

 3 栄光に輝くからだ



 神は「卑しいからだ」を「ご自分の栄光に輝くからだ」に変えて下さいます。何という畏れ多いことでしょうか。イエス様は「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた。」(ヘブル4:15)お方です。人は加齢と共に、からだの節々や心の隅々に、日々新しい痛みや苦しみ、苦労や心配等々を経験するものです。「栄光の主は、茨の主」です。主は喜んで私たちの重荷を受け取って下さいます。ご一緒に「輝く御国を目指して」一日一生、笑みをたたえて歩ませて頂きましょう。

「毛虫這えり、蝶となる日を、夢見つつ」(玉木愛子)