説 教 題:「相互内住の恵み」         中島秀一師
聖書箇所:ヨハネ福音書15:1~11

 昨年の3月末をもって現役を引退しました。それ以降、毎日のように身辺整理をしています。「断捨離」の必要性は良く理解しますが、「言うは易し、行うは難し」で、正直のところ余りはかどっていません。人から見て不用な物でも、本人にとっては大切な記念の品物なのです。

 イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言われました。その意味においてキリスト者にとって最も大切な物は「神の言葉である聖書・霊の糧である聖書」に他なりません。祝福されたキリスト者は日々に聖書を読み、理解し、暗唱し、黙想し、実践することが必要なのです。まさにキリスト教の信仰は「御言葉信仰」だと言えます。教団の大切な御言葉を三つあげておきます。

 1「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(新改訳2017)「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」(口語訳)
 2「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19~20)
 3「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)

 以上の聖句から「臨在」や「内住のキリスト」を見ることができます。

 二男がまだ小学校下級生の頃のことです。私のところに来て「お父さん、イエス様が僕の心の中に住んでおられると教会学校の先生から聞いたのですが、それ本当?」と緊張した面持ちで尋ねました。子供なりに真剣に受け止めていたのでしょう。イエス様が僕の心に住むなんてあり得ない。お父さんに聞けば本当のことを教えてくれるに違いない、という疑問を覚えたのでしょう。私は「それ本当のことだよ!」と答えました。すると彼は大きな口をあけ、指をその中に入れ、「お父さん!それならイエス様はここから入ったの・・?」と叫びました。
「内住のキリスト」と簡単に言いますが、私たちは純粋な子供と同じように驚嘆と感謝をもって「内住のキリストの恵み」を受け止めているでしょうか。私自身、深く反省したことでした。聖書は「内住のキリスト」以上に「相互内住の恵み」について三つの事例を教えています。

Ⅰ ぶどうの木と枝  (ヨハネ15章)


 聖書は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:1~2)と記しています。

 この譬えにおける農夫は父なる神、ぶどうの木はイエス様、枝は私たちキリスト者を表しています。ぶどうは素晴らしい果物ですが、その木や枝は建材はもとより家具にも食器にも使うことはできません。多くの実を結ぶことだけが唯一の価値であり、使命とも言えます。それではキリスト者に求められる実とは何か、価値とは何か、使命とは何かと言えば、ぶどうと同様に「実を結ぶこと」に他なりません。一例をあげれば、「キリストが形造られること」(ガラテヤ4:19)「生活のすべてにおいて聖なる者」(Ⅰペテロ1:15)となることなどです。この標準は私たちには不可能な高さです。農夫である神様が不可能なことを要求をされる筈がありません。そのために
イエス様は「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」と言われました。ここに「相互内住の恵み」が示されています。

 1 品性の実


 内村鑑三は「人生の目的は金銭を得るに非ず、品性の完成にあり」と言いました。世の中に欠点のない、完全な人は存在しません。むしろキリスト者はキリストの贖いによって「罪赦された罪人」に過ぎません。ですからイエス様が私の中にとどまられ、私もイエス様にとどまることによって、神は私たちをキリストの形に、聖なる者に変えて下さるのです。聖書は「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22~23)と記しています。

 2 悔い改めの実


 聖書は「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8)と記しています。私たちは「悔いる」ことはありますが、「改める」ことは難しいのです。つまり悔い改めの実が残らないのです。その原因は御言葉の約束にしっかりと立っていないからです。イエス様と私たちがつながっていないからです。聖書は「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)と記しています。

 3 忍耐の実

 聖書は「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)、「彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(ルカ8:15)と記しています。

Ⅱ パンとぶどう酒


 ヨハネは「パンの奇跡」において次のように記しています。「『まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。』」(ヨハネ6:53~56)

 1 新しい契約(キリストの贖い)

 イエス様は「それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。』」(ルカ22:19~20)
「古い契約」とは、神とモーセの間に結ばれたもので人間の行為に基づいた契約でした。「新しい契約」とは、神と人間の間に結ばれたイエスに対する信仰に基づいた契約でした。

 2 主の贖いの記念(信仰の継続)

 「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント1:25)

 3 主の死を告げ知らせる(宣教)

「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(Ⅰコリント11:26)

Ⅲ 全き愛


  ヨハネは「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:13~14)
 キリスト教は愛の宗教です。愛はすべての徳の極致です。最も崇高な愛は神の愛であり、それはキリストの十字架に見出すことができます。今日も神に愛されているという確信なくして一日たりとも私たちは歩むことはできません。

 1 互に愛し合う

 「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(Ⅰヨハネ4:12)

 2 御霊に満たされる

「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」(Ⅰヨハネ4:13)

 3 神の愛にとどまる

 「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」(Ⅰヨハネ4:16)
 私は「おはぎ」が大好きです。よく母親が作ってくれました。おにぎりの上に粒あんを乗せたものです。私は母にねだっておにぎりの中にも餡を入れて貰いました。ご飯(私)は餡(イエス様)の中に、餡(イエス様)はご飯(私)の中に存在しています。まさしく「相互内住の恵み」です。
 どうか、実を結び、十字架を負い、愛に生きる者として下さい。アーメン。