説教題:「わたしの霊による」       中 島 秀 一 師
聖 書:ゼカリヤ4章1節~6節

 「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(口語訳)
 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(新改訳2017)

 荻窪栄光教会の五本の使命の第一に「日本伝道隊の霊的遺産の浸透」が掲げられています。本日は日本伝道隊の聖句である「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」を取り上げます。

Ⅰ 日本伝道隊の霊的遺産

 日本伝道隊は明治23年(1890年)11月24日に来日されたB.F.バックストンに端を発しています。しかし、実際は1903年(明治36年)10月、英国リトルハンプトンにおいて日本伝道隊が組織され、翌1904年(明治37年)東京麻布において現地日本伝道隊が結成されました。その経緯には次の五つのことが考えられます。

1 祈りのグループ
 日本伝道隊は日本に対する宣教団体として結成されましたが、その活動の始まりは日本宣教に対する「祈りの群れ=prayer meeting」でありました。

2 御言葉の付与
 彼らは祈りの中で、まず神の御言葉を求めました。そして与えられた御言葉が「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によるなり」(ゼカリヤ4:6)でした。祈りを通して御言葉が与えられる、御言葉を求めて祈りを捧げる。御言葉が与えられるまでは動かない。こうした神との親しい交わりの中に、神の導きを求めるという姿勢の中に伝道隊のスピリットを、聖潔信仰・臨在信仰の揺籃を見ることができます。

3 超教派性
 日本伝道隊には英国国教会、フレンド派、長老教会、バプテスト派、メソジスト派などの教職や信徒が加わっていました。来日した各派の宣教師たちはそれぞれのビジョンと賜物とを発揮して、日本伝道隊員として様々な宣教活動に従事しました。ソーントンは丹波柏原において日本自立聖書義塾を開校しました。バーネットは北関東における宣教を通して日本福音伝道教団を生み出しました。ウエブスター・スミスは東京において学生伝道を初め、お茶の水学生クリスチャン・センターを生み出しました。第二代日本伝道隊総理のゴスデンの長男はポートランドにおいて宣教に従事して、日本キングス・ガーデンの模範となる老人施設を開設しました。

4 聖会の開催
 バックストンはわが国における「聖潔信仰(きよめ)の父」と呼ばれています。その聖潔信仰の実践として、日本伝道隊は聖会を重視し、早くから京都嵐山、有馬、そして歌垣(関西聖会)、塩屋聖会へと引き継がれてきました。

5 教職の養成 
 日本伝道隊は初期の頃から教職者の養成に努めました。竹田俊造が校長として始めた聖書学校には沢村五郎や小島伊助が学びました。現在の関西聖書神学校は1924年(大正13年)9月に神戸の御影において「聖書学舎」として発足しました。1930年(昭和5年)10月に現在の塩屋に移転しました。私が入学した1957年(昭和32年)当初は関西聖書学校でしたが、後に関西聖書神学校と改名しました。

6 未伝地伝道
 日本伝道隊は僻地伝道を使命として瀬戸内海や和歌山県の海岸沿いに宣教の場を求めました。その働きから生み出された群れは主として日本イエス・キリスト教団に加入しました。1951年(昭和26年)7月に日本イエス・キリスト教団は誕生しました。

Ⅱ 日本イエス・キリスト教団の信仰 

 小島伊助全集1巻163頁に、「わたしの霊によるなり」という説教があります。この説教は1963年(昭和38年5月)に行われた「日本伝道隊創立60周年記念聖会」における最後の礼拝説教です。この説教の付記に、「あの年の(聖会説教集)としてまとめられた中島秀一兄のご労を心からねぎらうものである。」と記されています。これは私がテープ起こしをしてガリ版で書き上げ、一冊の説教集「わたしの霊による」にまとめたものであります。26才の時です。
 私はその前年の1962年(昭和37年)10月に行われた「復活第二回香登修養会の説教をテープ起こしをしてガリ版で書き上げ、一冊の説教集「聖霊の象徴」としてまとめました。25才の時です。
 昨年9月に発行された「いのちの水の流れ~香登修養会60周年記念誌~」の付記に「佐藤師、小島師の説教は、若き日の中島秀一師(当時大原教会牧師)の筆記により、「復活第二回香登修養会説教集」に収録されたものをリライトしました。」と記載されています。

 「わが霊に由る」において小島は次のように述べています。
 「どうでしょうか、『わが霊によるなり、わが霊によるなり』と、『霊』にアクセントをおいてきたように思いますが、私は『わが霊によるなり』という御言葉に心捕らえられました。『わが霊によるなり』とご自身が乗り出して下さるときに、だれが御前に血肉をもって、我策、肉策、苦肉策を講ずることができましょうか。最初からひれ伏してしまって、最初から投げ出してしまって、最初から王たる神ご自身をお迎え申して、『わが霊によるのだ』というこのご宣言の前に自らを託してしまったこの聖徒たちの一群が、これを標語としてこの60年間の間流れてきたのであります。」
 小島はさらに「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」を「これは権勢(団体の勢力)によらず、能力(個人の力量)によらず、わたしの(そこにいます臨在の主)霊によるのである」と述べています。
 さらに、「これは聖書の御言葉であるばかりではなく、これは実に【みことのり】である。勅語であります。みことのりは同時に空疎な言葉ではない。これは王の顕現である」、日本伝道隊はこうして始まり、初期の聖徒たちは、最初から、王の顕現によって、そして「わが霊による」という勅語を拝して、文句なく、この御言葉を受け入れ、そしてこのお方を受け入れ、そしてこの顕現の御方様をお迎え申して、御前にひれ伏したのではなかろうかと」と、述べています。本日のテキストは紀元前539年にクロス王の勅令によって、イスラエル民族は解放され、エルサレム神殿の回復と城壁の修復にゼルバベルやヨシュアなどが第一陣として帰国致します。ところが様々な反対運動が生じまして、一向に所期の目的が実現に至らず、16年から18年の時が経過いたします。そうした中で、神は神殿建築と城壁の修復のために、預言者ハガイやゼカリヤに御言葉を与えて、イスラエル民族を励ましたのです。神殿建築が周囲の反対によってなかなかはかどらない、そこには自分たちの思うようにはならない厳しい現実が横たわっています。いらだちが起こって参ります。不信仰が頭を持ち上げて参ります。失望落胆、奈落の底に陥れられるような、もうどうしようもない敗北感、あきらめが生じて参ります。そうしたにっちもさっちもいかない状況の中で、神はゼカリヤに対して、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」と語られたのです。彼らはこの言葉に励まされて、見事に第二神殿並びに城壁の完成にこぎ着けたのです。
 
1 三位一体の神
 小島が強調する「わが霊」とは誰を指しているのか。キリスト教は一神教ではなく、三位一体教です。平べったい一神教ではなく、幅も奥行きも高さも広さもある、まさに三次元の世界ではなく、時間空間を超えた、宇宙大の、永遠性に満ちた世界が豊かに描かれているのです。
 ゼカリヤ書において「わたしの霊によるのである」と宣言された御方は、万軍の主である御方であり、それはまさに三位一体の神を意味しているのです。それは「創造と統治の霊」としての父なる神であり、「愛と赦しの霊」としての子なる神であり、「助けと慰めの霊としての聖霊なる神を意味しています。私たちの教団の伝統として、聖書の言葉を漫然として受け止めるのではなく、「この聖書の言葉は、だれが、だれに、なにを語り、何を求めておられるのか」ということを念頭において、真剣に取り組むことにあると言えます。その意味において、教団の信仰が「御言葉信仰(お方様)」と言われる所以なのです。

2 聖書信仰
 世界の保守的な教会は、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(第二テモテ3章16節)の言葉を根拠にして「聖書は誤りなき神の言葉=聖書信仰」を標榜しています。私たちの教団も「聖書信仰」に立っています。ただ、この「聖書信仰」は神学用語であって、その背後には長い歴史と広い解釈があることも事実です。20世紀に入って、アメリカの神学界において「聖書信仰」の新しい活動が活発化し、それまでの「聖書の無謬性(infallibility)」をさらに厳密化して、「聖書の無誤性(inerrancy)」を主張するようになりました。そして1978年10月に、自由主義神学(リベラル派)の傾向から「聖書の無誤性」を防衛するためにシカゴ声明が発表されました。
 1981年になってわが国にも紹介され、国内において大きな議論が起こりました。因みに「無謬とは、教理や道徳に関する聖書の言及において、誤って導くことがないこと」。「無誤とは、聖書の歴史的、科学的言及において、誤った内容のないこと」を意味しています。議論の渦中にいた村瀬俊夫は「私にとって、聖書は尊敬の対象であっても、決して信仰の対象ではない。聖書に示されている福音もしくはキリストこそ私の信仰の対象である」(「聖書信仰」藤本満著六三頁)と明言しています。

3 沢村五郎の信仰
 藤本満は「聖書信仰」(前掲書)の「戦前の日本における聖書信仰」において沢村五郎の聖書信仰について、「バックストンの流れからくる西日本に展開されていったホーリネス運動(きよめ派)は、中田のようなディスペンセーション主義や再臨運動の影響が少なく、御言葉と聖霊、御言葉を語る者、聞く者を感動させ、生かす聖霊が強調されている。(中略)沢村の説く聖書信仰は一八世紀の敬虔主義的・信仰復興的な流れにある。しかも彼の聖書理解には、ディスペンセーション主義的な色彩はなく、徹底して御言葉と聖霊の関係が強調され、聖書は信仰をもって聞く者の生涯を、聖霊が改革していく恵みの手段である。」(前掲書115頁~117頁)と記しています。
 沢村五郎の聖書信仰については、「大いなる救い」(48頁沢村五郎いのちのことば社)から一カ所を紹介します。
 「世間には聖書の批評学と称するものがある。(批評と批判は同義語である)。しかし聖書は人が批判すべきものではなく、人が聖書の前に批判され、さばかれて是非を正されなければならない。聖書の研究は大いにやるべきである。しかしわれわれは神のことばの光の前に、自らのありのままの姿を照らし出され、五臓六腑を鋭いみことばのメスによって切り裂かれ、根本的治療を施して下さるおかたの前にひれ伏して、委ねる態度を失っては、かえって有害でさえある。それは、頭には分かっても心の肉碑には刻まれず、血となり、肉となる真の霊の糧とはならない。そうなると、何を聞いても新鮮さを感じない、頭だけの極めて恵まれにくいかたくなな者となってしまう。このような知識は人を誇らせるだけである(Ⅰコリント八・一)。真理の言葉である聖書は、真理の霊である聖霊によってのみ、生ける神のことばとしてわれわれの心に働くのである。真剣なる祈りと切実なる御霊に対するよりたのみとをもってみことばに接する心がなければ、聖書の学びも一つの道楽となってしまう。」(45頁)沢村五郎は「私はカルビニストでも、アルメニアンでもありません。聖書主義者であります」と公言して憚りませんでした。関西聖書学校が関西聖書神学校と改名された際には、「神学の学校ではなく、神の学校であります」と、しっかりと釘を刺すことを怠りませんでした。彼は1924(大正13年)から1973年(昭和48年)迄の約50年間、神学校の校長を務めました。神学校の校長でありながら、彼は一つの神学や神学者に傾倒したり、一つの教派にも偏ることなく、ただひたすら日本全土への福音の宣教と日本の教会を生み出すために、伝道者、牧師の育成に生涯をかけました。そのために彼は「神の御言葉と真剣に取り組むこと」を身をもって教え伝えたのです、藤本は沢村を神学者として取り上げましたが、沢村本人にはその認識は全くなかったと思います。彼の引用した書籍は神学書ではなく説教集でした。若い時から垂水教会での礼拝説教、神学校での授業や祈祷会、福音誌や聖会説教などで養われてきた者にとっては、藤本の指摘はごく当たり前なことでした。改めて、新しい光を当てて下さった藤本に謝意を表すると共に、沢村の偉大さを再認識することができたこと、受け継いできた聖書信仰をしっかりと継承する者でありたく願います。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」(第二テモテ3章16~17節)
「妙なる命のみ言葉あり、その麗しさは類いあらじ、命に満ち、まことに富む、聖書は妙なる命の書、聖書はくすしき命の書」

Ⅲ 信仰者の最大の使命

1 ウエストミンスタ―小教理問答書
 この問答書の(問1)に「人のおもな目的は、何ですか。」とあります。それに対する答えは「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」とあります。聖書は「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(第一コリント6章20節)、「この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エペソ1章14節)と記しています。

2 礼拝は祈祷よりも深遠
中田羽後はホーリネス教団の教職でありながら、バックストンの「礼拝は祈祷よりも深遠である」という言葉に魅了され、日本イエス・キリスト教団に加入しました。
 教会音楽を使命とされる中田にとって、バックストンの言葉は、私たちとは全く違う次元の言葉として強く受け止められたのでしょう。聖書は「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4章23~24節)と教えています。

3 まことの礼拝
 聖書は「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12章1節)と教えています。 礼拝といえばすぐに教会堂における主日礼拝を考えますが、そうではなく、家庭礼拝があり、個人礼拝があり、地区礼拝などがあります。しかし、教会堂での主日礼拝はすべての礼拝の模範とすべき礼拝であり、信者にとって主日礼拝は最も大切な礼拝です。神に捧げられる礼拝として、最初の前奏から最後の後奏に至るまで、そのプログラムが良く理解され、主の臨在を深く覚える礼拝として整えられる必要があります。一つ一つのプログラムには意味がありますが、最後の献金、感謝祈祷、頌栄、祝祷について考えてみます。献金は献身の表明です。感謝祈祷にはその表明の意思が含まれる必要があります。
 頌栄は、父と子と聖霊の三位一体の神に栄光が永遠にあることを祈ります。
 祝祷は、三位の神に頌栄を捧げますと、間髪入れず、三位の神の名において、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」(第二コリント13章13節)と、牧師を通して宣言されます。
 よく礼拝式の終わり頃に来られる方を揶揄して「頌栄信者、祝祷信者」と呼ぶような風潮がありました。でも礼拝順序に優劣があるはずがありません。礼拝は最初の前奏から最後の後奏に至るまで、すべての項目には意味があります。何事もそうですが、始めと終わりが大切です。礼拝に遅れてくることは問題外ですが、良い意味において、「頌栄信者、祝祷信者」と呼ばれる者でありたく願います。

(2021.9.19)