招詞  マタイ7:7~8
賛美   新137(聖ナシ)
主の祈り  新826頁
使徒信条 新826頁
交読文  24(詩篇第67篇)898頁
賛美    新412(聖563)
聖書  エゼキエル1:1~14
説教  「主の栄光が共にある」井上義実師 聖書各巻緒論(26)
賛美    新459(新516) 
頌栄  新63(聖383)
祝祷

説教題:「主の栄光が共にある」井上義実師

聖書箇所: エゼキエル1:1~14

 

聖書各巻を開いていますが、エレミヤがエルサレム陥落のために涙を流した哀歌に続いて、エゼキエル書が開かれてきました。エゼキエル書は難しいと思われやすいでしょうが、預言書として整っています。預言書らしい書巻です。

 

Ⅰ.エゼキエルの背景

エゼキエルの名は「神が強めてくださる」との意味です。エゼキエルの時代を考えますと、正しく、神様によって強められなければ乗り越えることのできなかった時代を歩んでいます。エゼキエルは祭司の出身です(3節)。

神様の使信を告げる預言者でしたが、エゼキエル書の内容は、祭儀を執り行う祭司としての性格もよく表わされています。

紀元前597年、南王国ユダはネブカドネツァルによって侵略を受けて捕らえられ、バビロンに移された民の中にエゼキエルはいました。その5年後、異邦の地カルデアのケバル川のほとりでエゼキエルは預言者として召しを受けています。

少なくとも、22年間エゼキエルは預言者としての活動を続けました(29:17)。エゼキエルが移された際に、エルサレムには残された民があり、完全に陥落したわけではありません。

しかし、エルサレムに残った民は危機を直視しませんでした。真の神様が愛された聖なる都は滅びないと楽観視をしていたのです。愚かな偶像から離れ、真の神様への確かな信仰に立ち、今までの行いも心も、神様に悔い改めてひれ伏すならば、その後の事態は変わったことだと思われます。

バビロンに移されていたエゼキエル、エルサレムに留められていたエレミヤの言葉に従わなかった、ユダの王やエルサレムの民によって、紀元前587~6年、再びエルサレムは包囲され、完全に滅ぼされます(エレミヤ52章、エゼキエル24章)。

エゼキエルは、今まさに国が滅んでいくという緊急事態にあって、神様からの警告を発し続けていました。私たちも今、穏やかな時代には生きていないことでしょう。私たちも危機の時代にあって、エゼキエル書から神様の使信を受け止めていきましょう。

 

Ⅱ.エゼキエルの特徴

先のエレミヤ書は、時間の経過という時系列が前後して、読みづらい部分があります。しかし、エゼキエル書は、時間の流れが順序立てて書かれており読みやすいと言えます。

エゼキエル書の内容は、

1)神様のエルサレムへの審判、裁き:1~24章。

2)諸外国(近隣諸国、ツロとシドン、エジプト)への審判:25~32章。

3)終末と希望の預言:33~48章。

と大きく区分されます。前半には審判が記され、後半は回復が記されています。エゼキエルの生きた時代を超えて、神様の完全な救い、やがて起こる終末につながっていきます。この構成は他の預言書、特にイザヤ書を思い起こします。

 神様はエゼキエルに3つの形で啓示を与えられ、神様の使信を語られました。

1)幻を通しての啓示:1、8、10、11章;ケルビムと輪、37章;枯れた骨、40~48章;神殿。

2)象徴的な行いによる啓示:3章;巻物を食べる、4章;半身になって寝る、汚れたパンを食す、5章;髪とひげを剃る、他。

3)主のことばによる啓示:主のことばが確かに臨んだ(1:3)。同様の表現は50回以上に及びます。

預言者にとって、神様の言葉を授かるということは第一のことです。幻を見せられるということも他の預言者たちにも神様はなさいました。エゼキエルに特筆すべきことは、象徴的な行いで御心を示したということが言えます。行いでということは、自ら見せよと言うことでもあります。

 エゼキエルは神様に導かれ、神様の方法で使信を民に伝え続けました。私たちも、今の時代に向かって、福音宣教をどのように果たすのかを主に求めていきましょう。

 

Ⅲ エゼキエルを支えたもの(1章)

エゼキエルの召命の際、神様は聖なる輝く異象を見せられました(イザヤには、イザヤ6:1~8、セラフィム)。天的な存在(天使と言ってもよいでしょう)のケルビムと、ケルビムに伴う輪でした。

神様に、天につながっているきよさ、輝き、力、…神様の臨在の権威に満ちています。神様はさらに、エゼキエルに天の果てにまで届く大空を仰がせ、神様の御座、神様の臨在(他の例では、イザヤ6:6、ダニエル7:9)が拝せられました(1:22~28)。

国が失われて行く危機の時代に、遠い異邦の地で、真の神様の使信を伝えることは、大きな力が必要でした。エゼキエルが神様の臨在に触れたことによって、エゼキエルの生涯は力強く導かれていくのです。エゼキエルは正しく自立した存在でした「自分の足で立つ」(2:1~2)。

神様に霊によって、霊の力と命によって生かされました(2:2)。神様の使信を語る者とされました(2:7)。神様の栄光の前に打ち砕かれ、完全にひれ伏すことが、人を生かし、人を用いていくことにつながっていきます(1:28)。

 今月5日はペンテコステ記念礼拝を迎えて、聖霊に満たされて立ち上がったペテロたちを改めて語りました。エゼキエルはその数百年前に聖霊に満たされて立ち上がっています。代々の聖徒たちを生かした、神様の霊に満たされて、私たちもこの時代に遣わされて行こうではないでしょうか。

 

 

 

 

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