説 教 題:「罪を越えた愛」聖書各巻緒論(4)      井上義実師
聖書箇所:民数記21:1~9

聖書通読を進めています。聖書全体を読み進めるための一助として聖書各巻の緒論を始めました。その第四回となります。聖書通読は、民数記辺りから辛くなってくるのではないでしょうか。カタカナの名前と部族の人数がたくさん出てきて味気なく思える書巻かも知れません。

Ⅰ.基本的なことがら

●著者:伝統的な受け止めとしてモーセ(モーセ五書の第四巻)になります。
民数記の名称の由来は、1章、26章に2回人口調査がなされたことにあります。この人口調査の結果が人名と人数の列記になります。ただ本書全体から見てみますと、分量的には短いものです。記述の多くは、40年間の荒野の旅の歴史と、神様が与えられた律法、決まり事になります。この2回の人口調査は出エジプトから2年目の時点と、その約38年後の時点でとられています。この2回を比較しますと、荒野の40年間で人口はほぼ変わっていないのです。荒野での過酷な環境であり、大人数の移動を考えれば主の守りは確かなことです。恐らく普通ならば人口は大幅減か、民族自体が滅んでいたとしてもおかしくないでしょう。荒野の40年間はイスラエルの民の不信仰が招いた懲罰だけではなく、主が守られ助けられたカナンへの旅路であったことを忘れてはならないのです。

●執筆年代:出エジプトの年代を早期説としてB.C.1450年頃。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記の順に記されたことが理に叶っています。

●大区分
・1~12章  シナイ出発、12部族の陣営・秩序、パランの荒野、カナンを前にしたカデシュ到着。 
・13~19章 カナン偵察隊12人の派遣、ヨシュアとカレブ以外は心をくじかせる報告をする、民の不信仰、結果としての40年間の荒野の旅路。
・20~36章 カデシュに戻る、ミリアム・アロンの死、バラク・バラムの惑わし、エドムを巡る旅路。

Ⅱ.基本的なメッセージ:「不信仰と失敗」1~7章

 民数記でも荒野でのイスラエルの民は、神様の愛、神様の大能を知りながら背き、不信仰を繰り返しています。民数記中に記されたイスラエルの民の不信仰は、食物の欲心(11:33・34)、ミリアム・アロンによるモーセへの非難(12章)、カナン征服への民の不信仰(14章) 、コラ・ダタン・アビラムの反抗、彼らが滅ぼされたことへの民の非難・反抗(16章)、荒野の旅の不平不満(21:4~9)、モアブ人の娘・バアル神との淫行(25章)、これでもかと神様への反逆が出てきます。人間の罪の本質の根深さ、執拗さを感じざるを得ません。

 モーセは誰よりも柔和であったと聖書に記されています(12:3)。モーセは、度重なるイスラエルの民の反抗にも、命がけで執り成し続けたのです。そのモーセであっても、痛恨と言えるメリバの水のできごとが起こります(20章)。岩に命じるだけで良かったものを、モーセは杖で岩を2度打ってしまいました。さすがのモーセも怒りを抑えられなかったのです。神様の命に反したモーセはただ一度の失敗によってカナンに入れませんでした。人間的な力、能力に立つならばモーセでさえも神様の御心に叶うことはできないという事実は重いものです。

Ⅲ.基本的なメッセージ:「青銅の蛇を仰ぐ」21:1~9

 素晴らしい人格を持ったモーセでさえ失敗し、裁かれたのであれば、私たちの救いはどこにあるのでしょうか。21章では、イスラエルの民の不満に神様が燃える蛇を送り、多くの民が蛇の毒に倒れました。モーセは神様に助けを祈り、神様はモーセに青銅の蛇を作らせ、蛇に咬まれた民に仰がせられました。これが、イエス様がニコデモに語られた故事です(ヨハネ3章)。荒野の生活に不満を持った者は、神様を仰がず感謝を失っていたからです。蛇に咬まれて倒れても青銅の蛇を仰がなかった者は心頑なにして、不信仰に陥っていたからです。このことから、神様を仰ぐ信仰を持つなら、罪を犯していても赦しと回復があるのです。モーセよりも人間的にはずっと足りない私たちですが、神様を仰いで信頼することこそ救いの道なのです。今、私たちが仰ぐのは十字架にかかられたイエス様以外にありません。   

 荒野の民は神様から離れてつぶやき、不信仰の罪を犯して裁きを招きました。今、イエス様の十字架を通して救いの道が開かれたのは、神様の愛と憐みの故なのです。さらに私たちは、聖霊によって柔和の実を結び(ガラテヤ5:23)、柔和な心で執り成す者となることができます(同6:1・2)。柔和さは弱さではありません。柔和さによって勇気、力をいただいてこの世にイエス様を表わそうではありませんか。 

2021.6.13