聖書各巻緒論(17)
説 教 題:「エステルの決意」      井上義実師
聖書箇所:エステル記4:10~17

 エステル記はペルシャ帝国の支配下でのユダヤの民の話になります。年代的にはエステル記はエズラ記とネヘミヤ記の間に当たります。聖書で女性が主人公である書巻はルツ記とエステル記です。旧約聖書にも、女性の活躍が記されています。
・モーセの姉ミリアム:赤ちゃんのモーセがかごに入れられてナイル川に流された時に、ミリアムの機転があったからこそモーセは生みの母の元で育てられました。
・エリコのラハブ:遊女であったと記されていますが、真の神様への畏れからイスラエルに協力しました。ラハブなくしてエリコの陥落はなかったでしょう。マタイのイエス様の系図に名を残します。
・士師の一人デボラ:混乱を極めた士師記の時代にイスラエルを率いた一人です。サムエルの母ハンナ:子どもが与えられなかったハンナの特別な祈によって、サムエルが誕生します。イスラエルが次の時代に向かっていきます。
・預言者フルダ(列王Ⅱ22:14~):余り知られていないでしょうが、ユダのヨシヤ王はフルダに神様の御心を聞きます。エレミヤも活動した時代です。フルダをいかに信頼していたかが分ります。
… 彼女たちの神様への信仰、困難に対しても勇気を持って立ち向かい、道を切り開いていく姿は、性別とは何ら関係がありません。

Ⅰ.基本的なことがら

・著者:古来、モルデカイ、エズラとも言われてきました。
・執筆年代:クセルクセス王(アハシュエロス:ヘブル語標記)の治世の第3年から始まります(1:3前483年)。その後に記され、モルデカイやエズラの名が挙がります。
・大区分:一つのストーリーとしてつながっていきますので特に区分はありません。
1章 王妃ワシュティの失脚  
2章 エステル王妃となる
3章 ハマンの陰謀、ユダヤ人虐殺の布告 
4章 エステルの決心
5章 エステルの宴会 
6章 ハマンの屈辱 
7章 ハマンの失脚
8章 モルデカイの布告 
9章 ユダヤ人の勝利、プリム祭の制定
10章 モルデカイへの賞賛 

Ⅱ.全体のメッセージ

 ペルシャの王宮というエキゾチックな異国の雰囲気で話は始まっていきます。エステル記には神様の名(主、神と訳される)が出てこないという大きな特徴があります。そのことはエステル記を旧約聖書の正典に選ぶ際に問題視する考えありました。
ユダヤ人のモルデカイやエステルの信仰、祈りが、当地のペルシャの神々に向かうはずはありません。エステル記を読みますと、神様の摂理や計画が緻密に織り込まれていることに感嘆します。王妃ワシュティがクセルクセス王の機嫌を損ねて失脚します。新しい王妃選びで、ユダヤ人であるモルデカイに育てられたエステルが選ばれました。クセルクセス王は不眠の一夜に記録を読み、モルデカイが行った忠信な行為を知りました。勢力を伸ばしていたハマンのユダヤ人を絶滅させる、悪い邪な計画は、全てハマン自身に降りかかっていくことを見ます。私たちが知らない所で、私たちに見えなくとも神様は働かれています。しかし、神様はご自分の民にも苦しみや困難を取り除かれずに残されています。同時に、ご自分の民のために最善を用意されているのです。最善を無条件で与えようとされているのではありません。エステルやモルデカイの信仰の純粋さ、神様への信頼の厚さ、それに基づいた勇気の大きさ、自分を犠牲にしても全ての人の益を求めていくという行動を引き出されています。Cf.イエス様も人々に対してそのように行動されました。ツロ・シドンの地でカナン人の女性と出会われた。娘の癒しのために彼女はとりすがります。子犬も主人の食卓から落ちるパン屑をいただきますと答えました。イエス様は彼女の信仰をことのほか喜ばれました(マタイ15:21~他)。ベタニヤ村のラザロのよみがえりの際も、イエス様がベタニヤ村に着かれたのはラザロの死後4日経っていました(ヨハネ11章参照)。マルタ、マリヤのためにラザロをよみがえらせて下さいました。神様が困難、試練の中で時間を置かれる時、答えられないということではなく、その人の内側をご存知であって、最善の信仰を引き出そうと願われていることはあります。
 私たちも神様の前に信仰を認めていただき、その信仰を働かすことのできる者でありたいですし、私たちを越えて働かれています神様の大いなる働きを拝したいです。エステル記に神様の名が記されていないということは、逆に、目には見えませんが確かに働いておられる神様を指し示しています。エステルやモルデカイの信仰の応答の中に働かれている神様を明らかに見ることができるのです。異教のペルシャの地でこのことがなされていったということは、この日本でも私たちの信仰によって神様は働いてくださり、そのことによって多くの人が真の神様がおられることに気付くような業を拝させていただきたいです。

Ⅲ.聖書箇所のメッセージ:エステル記4:10~17

 モルデカイは民族の危急に際して、エステルに命がけの行動を求めました。この言葉は、モルデカイ自身が命をかけているからこそ言える言葉でしょう。エステルも命がけで応えていきます。ここから、話は急転回を迎えていくのです。彼らは、ユダヤ民族の存亡がかかっている以上に、真の神様の御名が汚されないために立ち上がっていったことです。私たちは信仰によって、自分の命よりも大切なものを受け止めていることは幸いなことです。それは、命を軽んじるのではなく、命を与えて下さっている神様のために精一杯、自らを活かして生きる生き方につながっていくのです。

 エステルが生きた時、エステルに与えられた使命は特別なものであったでしょう。私たちは平凡な、普通の時に生きているように思えます。しかし、私たちが生きるこの時は、これ以前には無かった時であり、これ以降にもない時であるという意味では、特別な今のこの時です。神様によって、この時に生かされているという私たちが、与えられている使命に応えて生きる者とさせていただきましょう。神様が働いてくださる信仰を持つことのできる私たちとなりましょう。