第1回 「失われたもの」

聖書 ルカによる福音書19章1節~10節
中心聖句 「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」  (ルカ19:10)

この度、荻窪栄光教会では教会員向けの情報誌「Webコイノニア」の開設に際して、担当者から井上義実師とは異なる視点から、私にも何か書いて欲しいという要請を受けました。いろいろ考えたのですが、余り堅苦しい内容ではよろしくないし、そうかと言って砕けたエッセイでもどうかと思いますし、あれこれ試行錯誤する中で、「福音の本質」という信仰の基本的な事柄に焦点を合わせて書いてみることにしました。

聖書やキリストの教えのことを「福音」と呼びます。福音とは「幸福な音信」を略した言葉で「ふくおん」ではなく、「ふくいん」と呼びます。原語(ギリシャ語)は「ευαγγέλιον=ユウアンゲリオン)で、「Good News=良い知らせ」という意味です。私たちにとっての「Good News」とは何か、ということについては、人それぞれ、時と場合によって異なることは当然のことです。しかし「COVID=19」災禍の中にあるお互いにとって、共通の、しかも最大の「Good News」は、「新型コロナウイルス」の感染力が弱くなり、災禍の騒ぎが終息することに他なりません。たとえ終息の目処はたたなくとも、感染者が減少したとか、死者が減少したとか、ワクチンが開発されたとか、というようなニュースは、今の私たちにとってはこの上ない「Good News」に違いありません。それはこうしたニュースは、コロナ災禍によって失われた健康、失われた経済、失われた学業、失われた人間関係、失われた家族関係の回復に一条の希望の光を与えるからに他なりません。

改めて中心聖句を確かめて見ましょう。「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」という言葉です。「人の子」とはイエス・キリストのことを指していますから、この言葉は主イエスが語られたものであることがよく分かります。主イエスから見れば、すべての人は神から失われた存在であることになります。自分の人生を失うとか、創造主である神から失われるということは尋常なことではありません。

 ルカ福音書15章には「三つの失われたもの」の話が記されています。
第一は100匹の中の1匹が失われた「失われた羊」の話です。(15:1~7)
第二は10枚の銀貨の中の1枚が失われた「失われた銀貨」の話です。(8~10)
第三は二人の息子の中の一人が失われた「失われた人」の話です。(11~32)
第一は動物の話で割合は100対1です。第二は物質の話で割合は10対1です。第三は人間の話で割合は2対1です。だんだんとその深刻さが増し加わって行きます。これらの三つの話は、それぞれ失われた対象が異なり、失われた率が異なり、失われた価値が異なります。しかし、それらが見つかった時の持ち主の喜びは、それぞれの対象や率や価値に応じたものではなく、すべて同様であったところにこの譬え話の本来の意味を伺い知ることができます。

 その本来の意味を解く鍵は、
「大きいよろこびが、天にある」(7)
「神の御使いたちの前でよろこびがある」(10)
「喜び祝うのはあたりまえであろう」(32)

という言葉に表現されています。つまりこの譬え話は、「人間を創造された神が、神から失われた披造物である人間を尋ね求めてこの世にこられ、人間を救われる」という、まさに「Good News=良い知らせ」、そのものを伝えようとしているのです。

 そもそも最初の人であるアダムとエバが堕落してエデンの園から出て行った時に、神が最初に彼らにかけられた言葉は「あなたはどこにいるのか」というものでした。このように考えますと、聖書の歴史は「神が人を捜し求められる歴史」である、と言っても決して過言ではありません。

 さて、本題に入っていきたいと思います。本日のテキストの主人公は「ザアカイ」です。ザアカイは聖書における有名な人物であり、愛すべきキャラクターです。小さな子どもたちの大好きな人物でもあり、また私の大好きなストーリーでもあります。何よりもこの実話の素晴らしさは、福音の本質(Good News=良い知らせ)」を見事に描写しているところにあります。ザアカイはユダヤのエリコの取税人の頭で、その地位を利用してあくどい税金の取り立てをして民衆からは「罪深い男」と嫌われていました。地位も財産もありましたが、親しい友人もなく、孤独で寂しい生活をしていました。主イエスはこのザアカイを「失われたもの」と見定めて、この「失われたザアカイ」を「尋ね出して救うために」、「人の子がきた」(神が人となられた)と宣言しておられるのです。

一寸、理屈っぽい言い方をしますと、「失う、失われる」という意味は、「あるものが本来あるべき場所から逸脱して、あるべからざる場所におかれることである」と定義づけることができます。分かりやすく言えば、「私の手元にある筈の眼鏡を、バスの中に置き忘れた、落とした、失った」ということなのです。この場合「眼鏡で良かった、失った場所を覚えていた」ということであれば良いのですが、失った物がより大切なものであり、失った時や場所などを忘れた、思い出せない場合などは、より深刻な事態となります。

この場合、眼鏡を失った主体は中島であり、失われた眼鏡は客体です。中島は能動態であり、眼鏡は受動態です。先に述べた「三つの失われたもの」の場合、羊や銀貨には「失われたもの」という自覚はなかったのですが、放蕩息子の場合は、明らかな自覚がありました。聖書は「そこで彼は本心に立ちかえって言った『父のところには食物のあり余っている雇い人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている』」(ルカ15:17)と訴えています。

ザアカイには果たして「失われたもの」としての自覚があったのでしょうか。聖書は人間はすべて神の所有物であることを教えてます。

聖書は「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1:27)、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)と教えています。その意味において人間は本来、神が所有されるものなのです。聖書は「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」(イザヤ43:1)と記しています。

 ここで明確に理解しておきたいことは、「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」という場合、「失った」という主体は「神」であり、「失われたもの」という客体は「人間である私たち一人びとり」であるということです。私たちはここにおいて「失われたもの、神から失われたもの」としての自覚を求められています。

 ザアカイに関して三つのことを考えて見ましょう。

第一は「神の愛から失われたもの」

ザアカイについて聖書は「この人は取税人のかしらで、金持であった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった」(ルカ19:2~3)と記しています。ここで三つのことを知ることができます。一つは「背が低い」という身体的ハンディかヤップのこと、二つは「群衆にさえぎられて」いたこと、つまり彼は日頃から民衆の反感を買っていたこと、三つはこれは私の推測ですが、両親からの励ましの教育を受けていなかったことが考えられます。こうした成長の過程で彼は報復の手段として取税人という職業を選んだのではないかと考えます。いずれにせよ人々への憎しみはザアカイを神の愛から離れさせるに十分な要因となったことだけは確かであると考えます。

第二は「神のきよさから失われたもの」

当時のユダヤはローマの属国であって民衆は両国に二重の税金を納める義務を負っていました。しかも取税人は請負制度であって、正当な税額に上乗せして徴収するということは半ば公然として行われていたことでした。そのような訳で彼が「金持であった」という聖書の記載は、私たちを納得させるには十分です。ザアカイは主イエスに出会ったことによって、誰からも強制されることなく、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」(8)と言っています。

当時の取税人は請負制度が慣習として認められていたとしても、きよき神の前においては明らかに糾弾されなくてはならないものであったことは確かです。

第三は「神の生命から失われたもの」

彼は「金持」であったので大きくて、立派な家に住んでいたものと思われます。しかし、家はそこに人が住み、客が集まらなくては何の意味も生甲斐も見出すことはできません。彼はそうした現状に人生の悲哀を感じていたのかも知れません。主イエスが自分の住むエリコに来られることを知った彼は人に遮られることにも動ぜず、主イエスにひと目会いたいという一心で、近くの一本のいちじく桑の木に登ったのでした。そこを通られるとき、主イエスは、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」(5)という言葉をザアカイにかけられました。彼は即座に主イエスの言葉に従って「よろこんでイエスを迎え入れた」(6)のでした。その後、主イエスはザアカイに対して「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。」と言われました。

高齢者になりますと物忘れがひどくなります。人の名前や漢字などが思うようにすぐに出てこないのです。手近においてある筈の筆記用具や眼鏡や書類などを見失うこともしばしばです。ひどいことには昨晩口にしたメニューが思い出せません。一番困ることは薬の飲み忘れです。

この度のコロナウイルス感染症(COVID-19」の最大の危険性は、私たちの生活様式が根底から覆されたことにあります。「人間関係や家族関係の遮断」が、全年齢層にわたって現実となり、より深刻な孤独化を招くことを危惧しています。しかし、最大の危険性は霊性の混迷による「神と人間との遮断」にあると認識しています。

 終わりに今一度、中心聖句を見てみましょう。

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」

 主イエスは失われた私たちを尋ね出して救うためにこの世にこられました。私たちは、神から失われていることさえ知らないのかも知れません。でも迷子になった子どもは必死になって泣き叫んで親を捜し求めています。親は親として死ぬような思いで迷子になったわが子を探し求めます。この親子の心情は、堕落してエデンの園を追放された人間に対して、「あなたはどこにいるのか」と、今も「失われたもの」を必死になって叫び求め続けておられる神の心情にその原型があるのです。

 「親の心、子知らず」という言葉がありますが、「神の心、人知らず」であってはなりません。私たちは今一度、「神の愛から失われたもの、神のきよさから失われたもの、神の命から失われたもの」であることをしっかりと自覚し、神との正しい親子関係を築いて行こうではありませんか。