説教題:「神に栄光、人々に平和」         中 島 秀 一
聖 書:ルカ福音書2:8~20

「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)

 クリスマスとは、「神が人となられた日」です。難しく言えば「受肉降誕」、つまり、「目に見えざる神が、目に見える肉をまとって、目に見える姿でこの世にこられた日」です。まさに青天の霹靂、天地がひっくり返るような、信じがたきことが、粛々と起きたのです。歴史はこの日を境にして、キリスト降誕以前を紀元前「before Christ(B.C.)」、紀元後を「Anno Domini(A. D)」と呼ぶようになりました。
 「天に栄光・地に平和」とは何という素晴らしい言葉でしょうか。。両者は一体であって切り離すことはできません。神に栄光を帰さなければ、地に平和をもたらすことはできないのです。

Ⅰ 神への賛美=預言の成就

1 羊飼いへの顕現
 キリスト降誕のニュースが卑しい羊飼いたちに最初に届けられたことに大きな驚きを覚えます。キリストもまた王の身分ではなく、王宮にではなく、ただ一介の大工の小倅として、家畜小屋において誕生されました。羊飼いたちに主の使いが来たときに、「主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」(9)のです。

2 羊飼いへの告知
 「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」(10~12)
イエス・キリストの誕生の預言は旧約聖書に記されています。
「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)
 「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:6~7)

 私たちは預言と成就の間に大きな隔たりがあることに大きな戸惑いを覚えます。預言には神の王国の主権者としての力強さを感じますが、成就には飼葉桶に象徴される貧しさ、弱さ、低さ、無力さなどを感じます。この落差の中に私たちは救い主として来臨されたキリストの真の意味を見出すことができるのです。

3 御使いと軍勢による大賛美
 御使いによる羊飼いたちへの告知が終わるや否や、「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。』」(13~14)

 「神に栄光、人々に平和」は、「受肉降誕」の預言の成就に対する御使いと軍勢による神に捧げる大賛美であります。

Ⅱ キリストへの信仰=十字架と復活

1 クリスマスにかざす陰
 小島伊助の説教に「クリスマスにかざす陰」があります。「クリスマス・シーズンを、いわゆる祝賀会式にもって行かせる材料に事欠かない。しかし他面、心静かにこれら同じ記事に目を移していくとき、そこには劣らず、沈痛、断腸、胸裂かるる思いする記事の少なくないことを思って座り直すのである。イエスの誕生、彼の出現を囲って、それは決してただ笑い興ずる安価な出来事の連続のみではなく、そこにはどれほどの価が払われ、犠牲があえてされているか、犠牲は同時にいけにえなのである。私はこれはクリスマスにかざす陰と観じた。」
 最も大きな陰は父なる神の痛みです。独り子であるイエス・キリストをこの世に人として遣わす胸の内はいかばかりであろうか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

2 十字架
 飼葉桶は十字架に、ベツレヘムの野はゴルゴダの丘ににつながります。万人は死に向かいますが、死を目的として生まれた人は、世界広しといえど、キリスト以外にはありません。
 聖書は「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:23~24)
 神に対して罪を犯した人間の罪を赦し、神の子とするためには、罪なき神の血、キリストの贖いの血が流される必要があったのです。

3 復活
 十字架で死んでしまえば、それは犬死にであり、一巻の終わりです。聖書は「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Ⅰコリント15:20)
 使徒信条は「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、」と歴史的な事実として告白しています。

「神に栄光、人々に平和」は、私たちのキリストに対する信仰告白であります。

Ⅲ 聖霊の執り成し=教会の完成

1 羊飼いたちの信仰
  告知を受けた羊飼いたちは、それを確かめるために、「急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。」(ルカ2:16~18)のです。羊飼いたちの熱心な求道心は急速に進み、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(同20)彼らは短時日のうちに、確信に満ちた信仰にまで成長したのです。まさにこれは聖霊の導き、執り成しの祈りによる他ありません。

2 神の栄光をほめたたえる者
 イザヤは「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。」(43:7)と記しています。
 パウロはエペソ人への手紙一章において、
 「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(1:6)
 「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」(1:12)
 「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。(1:14)と記しています。
 私たちは、「主の御名を崇めます。賛美します、褒め称えます。・・・」などと言います。果たしてそれに見合う生活をしているでしょうか。羊飼いたちは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」のです。私たちも羊飼いたちのように、神をあがめる者でありたいと願いますが、残念ながら、私たちの現実は不十分なものです。

3 聖霊の執り成し
 しかし、有り難いことに、「 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」(ローマ8:26) 現代ほど「神に栄光、人々に平和」にほど遠い時代はありません。コロナウイルス感染症、新種のオミクロンの発生、地震、竜巻、津波、地球温暖化の問題等々、終末の色濃い時代に私たちは住んでいます。この機に私たちは失望することなく、自分たちの不信仰を悔い改め、聖霊の執り成しの祈りに力を得て、真剣に祈る者とならなくてはなりません。

 「神に栄光、人々に平和」は、教会の完成のために、聖霊の執り成を受けて捧げられる人類の悲願の祈りであります。

(2021.12.19)