聖書各巻緒論50・パウロ書簡6
説 教 題:「イエス様にならうもの」    井上義実師
聖書箇所:ピリピ2:1~18


 次週は棕櫚の主日となり、受難週が始まります。受難節にあって、十字架へと向かわれるイエス様を心に深く受け止めましょう。主題はピリピ人への手紙全体からですが、イエス様の十字架の御受難を描いた箇所を中心にします。

Ⅰ.高慢がもたらす不一致
 ピリピ人への手紙は喜びの手紙と言われます。さほど長くないこの手紙の中に、喜びと言う言葉が16回用いられています。この時、パウロはローマの獄中にいました。じめじめとした薄暗い、番兵に24時間監視されている、自由のない辛い環境でもパウロにあった喜びは少しも揺るぎませんでした。
パウロが心からの喜びを持って、獄中から手紙を記した、宛先のピリピ教会は喜ばしい状態とは言い切れないものでした。パウロが投獄されているのですから、私たちは一つになって先生のために祈り、支えましょうと言うべきでしょう。そのような状況にも関わらず「ねたみや争い」(1:15)から、「党派心」(1:17)を持つ者たちがいました。パウロがいないので、自分たちこそリーダーだという人たちがいたというのです。
神様につながっていても、不完全な人間が集まる教会に、問題が起こってくることもあります。読んでいただいた箇所の1~4節は「利己的な思いや虚栄心」(3節)を持って一致を乱す人たちに対して勧められています。イエス様の愛と聖霊のきよい交わりがあるなら、「同じ思い… 同じ愛の心」(2節)を持つようにというメッセージでした。パウロには、ピリピ教会は諸問題を乗り越える力があるという思いがあったのです。お互いの思いを越え、違いを越え、一致していための解決方法をこの後に述べていきます。

Ⅱ.謙遜がもたらす一致
 パウロは、教会内に起こってきている人間関係の問題の解決には、互いにへりくだることが必要だと言っています。5~11節でへりくだりの模範を、イエス様の降誕、生涯、十字架の死、復活、昇天、栄光に求めています。イエス様の地上の生涯の意味をここまで説き明かした箇所は新約聖書中、他にはないでしょう。Cf.以前にも語りましたが、笹尾鉄三郎師はこの箇所をイエス様の7段の謙遜・7段の栄光と語っています。
『謙遜』1)捨てられた、2)空しくした、3)しもべの姿をとり、4)人間と同じようになり、5)自らを低くし、6)死にまで、7)十字架にまで。
『栄光』1)神は高く上げ、2)すべての名にまさる名、3)天にあるもの、4)地にあるもの、5)地の下にあるもの、6)すべての舌が主を告白する、7)神に栄光を帰する。 …私たちが、イエス様に届くことは不可能です。しかし、イエス様の愛を知っているならば、少しでもイエス様のへりくだりに近づくため、祈り努める者です。このことにより初めて一致が生まれていきます。表面的に合わせることはできても、本当の一致は、神様によって砕かれた心、神様によって変えられた謙虚さを持たなければ成し得ないのです。神様がそのようにさせてくださるのですから、神様に希望を持っていくことができるのです。

Ⅲ.従順がもたらす祝福
 パウロは謙遜を大切にすることを、神様に対して従順であれと言い換えています(12節)。私たちが、完全な救いに至るまで油断することなく、従順に歩みを続けるようにと勧めています(12節)。従順が信仰のいかに大切な土台であるかを受け止めることができます(へブル5:7-10)「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」。神の子イエス様でさえも、苦しみから従順を学ばれたというのは、何という驚きではないでしょうか。私たちがどれ程従順を学び、得ていかなければならいのかと感じます。
私たちの歩みが実りあるものとなり、様々な悪や汚れに満ちた世の中であっても、それに染まることなく、神の子としての生涯を全うすることができるのです。私たちが動かされないで歩むためには、御言に固く立っていることです。御言の輝きは私たち自身を、私たちの周囲を照らし出していきます(13~16節)。
 この世にあって、この世に毒されず、この世に害されずに歩むために何が大切なのでしょうか。ピリピ人への手紙は「キリストにあって」「主にあって」と言う言葉が17回用いられています。キリストの内に、主の内にとも訳される言葉です。私たちがイエス様の内に隠れこむのが、この世を歩む信仰者の秘訣となります。危機の中で、イエス様に祈り、求めていく時にイエス様は応えられないはずはありません。イエス様は、どんな危機や困難が迫っても、絶対安全なシェルターとなる御方なのです(ヨハネ16:33)「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」。この世の全ての困難、試みに対してイエス様は守り、助けてくださいます。

 私たちの歩みはイエス様によって心の思いが整えられ、イエス様によって一時に過ぎないこの世のものではなく、神様にある永遠へと導かれていきます。

 あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワーズ

FOOTPRINTS

One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
“Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I’m aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don’t understand why, when I needed You most,
You leave me.”

He whispered, “My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you.”