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礼拝出席


 

 


 

※4人目以降は、3人分を送信後に再読み込みして記入してください

司会:丹羽琢也兄  奏楽:長谷川綾子姉

前奏                              奏楽者
開会唱             聖366    聖歌隊
招詞              ローマ12:1~2司会者
賛美              新4(聖ナシ)   一同
主の祈り    新826頁     〃
祈祷唱             聖373(新ナシ)  〃
使徒信条    新826頁     〃
交読文             3(詩篇第16篇)880頁(新改訳)〃
祈祷                                司会者

賛美              新260(聖460)         一同
合唱              「諸天は神の」   聖歌隊

聖書              詩篇139:1~24松下真由美姉
説教              「あなたの神は小さすぎる」島津吉成師
祈祷                                 一同

賛美              新427(聖520)         一同
献金
献金唱             聖378(新ナシ)       〃
感謝                              当番

頌栄              新63(聖383)       一同
祝祷                              牧師
閉会唱             聖389(新ナシ)       聖歌隊
後奏                                  奏楽者
報告                                  司会者

聖会Ⅰ あなたの神は小さすぎる
日本ホーリネス教団 辻堂キリスト教会牧師 島津吉成師
聖書:詩編139:1~24

詩篇139篇は、神様はどのようなお方か、ということをたいへん大きなスケールで、私たちに示してくれています。私たちが礼拝をささげている神様は、どのようなお方なのでしょうか。

Ⅰ すべてを知っていてくださるお方(1~6)

ここには、「神様はすべてを知っておられる」ということが書かれています。それを聞いて、どのような感じがしますか。困ったな、怖いな、と感じる方がおられるかもしれません。この感覚は大事だと思います。人が見ていなくても、ちゃんとした生活をしなければならない、という感覚は大切です。

では、その神様のまなざしはどんなまなざしなのでしょうか。厳しく、監視するようなまなざしでしょうか。違いますね。神様のまなざしは、愛のまなざし、慈しみのまなざしです。主人からいじめられて苦しむ女奴隷ハガルに、神様は目を留めてくださっていました(創世記16:13)。人がどうであろうとも、神様は私の苦しみを知ってくださっているということを知ったとき、ハガルは立ち上がることができたのです。

今日も主は、私たち一人ひとりを愛と慈しみのまなざしで見てくださっています。「座るのも立つのも」と言われているように、神様は私たちの生活の細部に至るまで、慈しみのまなざしをもって見ていてくださるのです。そして、「あなたの苦しみも、悲しみも、わかっているよ」と言って、受け止めていてくださいます。それが私たちの神様です。

Ⅱ どこにでも、共にいてくださるお方(7~12)

神様はどこにでも、私たちと共にいてくださいます。「たとえ、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。」(8)と記されています。天に上るような喜びの時には、主も共にいて喜んでくださいます。また、よみに床を設けるような、私たちが絶望のどん底に横たわり、立ち上がる力もないという時にも、主はそこにも共にいてくださいます。

主イエスは、すべての人の罪を代わりに負って十字架につけられ死なれました。そして墓に葬られ、よみにまでくだられました。私たちが絶望と思う、そのさらに下、一番下にまで降りて行ってくださったのです。そして、何と、その死のどん底から復活されました。このように、死を打ち破って復活された主は、私たちを絶望のどん底からも立ち上がらせてくださるのです。

Ⅲ 私たちを造ってくださったお方(13~18)

神様は私たちを造ってくださいました。この詩人は、「私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。」(14)と、感嘆の叫びをあげています。

別の翻訳の聖書では、「私は畏れ多いほどに、驚くべきものに造り上げられました」(共同訳)と訳されています。英語の聖書では、「奇しいこと」「驚くべきものに」という所を「ワンダフル(素晴らしく)」と訳しています。

それならば、「もう少し、美人に造って欲しかった」と思う方がおられるかもしれません。私たちは、自分に不満を持っている、ということがあるのではないかと思います。「私ってなんてダメなんだろうか」と思って、劣等感を持ったりします。そして、その不満は神様にも向けられます。神様に対して怒りさえ感じてしまうということさえあるかもしれません。

では、神様が私たちを素晴らしく造ってくださった、とはどういう意味なのでしょうか。神様は人を「神のかたち」に造ってくださいました。神のかたちに造ったとは、神様は、愛の対象として、愛の交わりを持つことのできる存在として人を造ってくださったということです。

ですから、主はこう呼びかけてくださっているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)。しかも、この愛は、十字架の愛です。主イエスは私たちを愛し、私たちのために命を投げ出してくださったのです。

あなたが自分のことをどう思うか、また人があなたのことをどう評価するか、そんなことは関係ありません。今朝も、主は私たちに呼びかけてくださっているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。かけがえのない存在だ。あなたを素晴らしく造った。わたしはあなたを愛している。」

Ⅳ どう応えて行くのか(19~24)

1.サタンの声を退ける

 「神よ、どうか悪者を殺してください。人の血を流す者どもよ、私から遠ざかれ」(19)。
 この言葉は、誰か特定の人に対してというよりも、サタンに対しての言葉だと読みたいと思います。サタンは、「神様が知っていてくださる、共にいてくださる、愛していてくださると言うけれども、本当か?」とささやいてくるのです。そのささやきに対して、断固として、「サタンよ、退け!」と言って、サタンの声を退けましょう。

2.悔い改め

自分の中に「傷のついた道」(24)があるかどうか、点検してみましょう。それは、検事が犯罪者を取り調べるようなことではありません。神様の愛に包まれて、心を開きましょう。神様はあなたが本当に祝福された歩みをするようにと願っておられるのです。頑なであった、不信仰だった、高慢だった…。主が示してくださることを悔い改めましょう。

3.信じ、従う

「私をとこしえの道に導いてください。」(24)
 神様は私たちのことを知っていてくださいます。共にいてくださいます。愛してくださっています。あなたが思っている神様は小さすぎませんか。神様は大きなお方です。このお方を信じ、従って行きましょう。
「私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。」

聖会Ⅱ 「わたしの霊によって」
日本ホーリネス教団 辻堂キリスト教会牧師 島津吉成 師
聖書箇所:ゼカリヤ4:1~14

バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民は、総督ゼルバベル、大祭司ヨシュアに率いられて神殿の再建に着手します。しかし、外からの妨害や、イスラエルの民が神殿の再建よりも自分たちの生活を優先し、神殿再建への熱意が冷めてしまったということもあり、工事は16年間も中断したままになってしまいます。

そのようなときに、神様は預言者ゼカリヤを立て、ゼルバベルを励ましました。

Ⅰ 金の燭台の幻(2)

主はゼカリヤに金の燭台の幻を見せてくださいました。その燭台には7つのともしび皿があり、その一つひとつに7本の管(燈心)が付いていました。つまりそれは、49の燈心に火がともる、とても明るい燭台でした。

暗い世界を明るく照らす燭台、これがあなたがたの使命だと、主はこの幻を通して示してくださったのです。神殿再建は単なる自分たちのためということではなく、世界の祝福のためだと言われたのです。

主イエスは、「わたしは世の光だ」と言われました。さらに主イエスは弟子たちに、「あなたがたは世の光だ」と言われました。主イエスの光を受けて、ちょうど月が太陽の光を受けて夜空に輝くように、あなたがたは、世の中がどんなに暗くても、そこを明るく照らす光となるのだ、と言われたのです。

教会の使命もここにあります。今は大変な時代です。しかし、世の中がどんなに暗くても、そこを明るく照らしていく、そこに私たちの使命があります。

Ⅱ 権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって(6)

では、どうやってその使命を果たして行くことができるのでしょうか。主はゼルバベルに言われます。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」

「権力」とは、軍隊などの集団の力。「能力」とは、個人の才能、力量の意味だと言われます。

捕囚から帰ってきたイスラエルの民には、ダビデの時代のような軍事力はありません。セルバベルは、ダビデの時のような軍事力があったら、と思ったかもしれません。また、ゼルバベル自身も、ダビデのようなリーダーシップの力がないことを痛感していたのではないでしょうか。神殿が壊されて、がれきの山となっています。それを前にしてうなだれているゼルバベルに、主は言われたのです。「権力にはよらない、能力にもよらない。それらに頼るな」と。

そして主は言われました。「わたしの霊によって」と。「わたしの霊」、それは主のいのち、主の力、主ご自身ということです。

権力に頼る、能力に頼る、これは人間の力に頼るということ、自分の力に頼るということです。自分の力に頼ってなされる業は、キリストの香りを放つことが出来ないのです。その自分を主に明け渡すのです。そのとき、主が働いてくださいます。主がしてくださる、主がさせてくださる、という恵みの世界が始まるのです。

Ⅲ それはどのような生き方になるのか。

1.感謝(7節)

「大いなる山よ、お前は何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる」と言われています。主が働いてくださるとき、人間の力ではどうすることもできなかった大きな山のような課題も、平らにされていくのです。

さらに、「彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼び声があがる。」と言われています。

「恵みあれ」というこの言葉は、「恵みがありますように」という祈りであると共に、「このように工事をさせていただけるのは、神様の恵みです!」という感謝の叫びでもあります。

主は、権力(集団の力)によるのでもなく、能力(個人の才能)によるのでもなく、無きに等しい者をあえて選び、主の霊を満たし、主のご用のために用いてくださるのです。ですから、彼らは「恵みだ!恵みだ!」と叫びながら、工事に当たったのです。

感謝は信仰のバロメーターです。感謝が乏しくなってきたら、そして、強いられた義務感で何かをするようになってきたら、どこかがおかしくなってきているのです。どんなに大きな恵みによって、今の自分があるのかを覚え、主の恵みに感謝しつつ、一つひとつのことをさせていただきましょう。

2.蔑む声に打ち勝つ(8~10)

「だれが、その日を小さなこととして蔑むのか」とありますが、これは、工事を再開したとき、「そんな事をしてもどうにもなるものではない」と蔑んだ人たちがいた、ということです。

「重り縄」とは、長さを測る道具だそうです。ゼルバベルが完成した建物を測っていたのかもしれません。工事を始めたとき、蔑んだ人々、悲観的だった人々も、神様が完成させてくださった建物を見て喜ぶようになるというのです。

神様から導かれたことを、いざ、やろうとするとき、これができるのだろうかとか、こんなことをやって、どうなるのだろうか、と自分の中で蔑むささやきが聞こえてくるかもしれません。

大事業も、小さな一歩から始まります。聖霊は自分の中でささやく蔑む声に打ち勝たせてくださいます。聖霊は、まず、一つの石を運び出す、その力を与えてくださるのです。

新しい年、皆さんの目標は何ですか。それが達成されるために、まず、第一歩、何から始めたらよいですか。聖霊は、その一歩を踏み出す力を与えてくださいます。

3.キリストとつながり続ける(11~14)

二本のオリーブの木から金の油が燭台に注ぎ出されていました。この油によって、燭台の火は燃え続けることができたのです。

ここでは、この二本のオリーブの木は、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルをあらわしていますが、これは、真の「油そそがれた者」である主イエスを指し示していると言って良いでしょう。

私たちは主イエスとつながっているとき、油(聖霊)の供給を豊かに受け、世の光としての使命を果たすことができるのです。

具体的には、礼拝と聖書のみことばの黙想を大事にしましょう。私たちは、ここで主の臨在に触れ、主のいのちにあずかるのです。

「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)

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