説 教 題:「聖霊の宮」  中島秀一

聖書箇所:コリント第一 6:12~20

 本日のテキストであるコリント人への手紙第一の6章はこの世における「キリスト者の本質」を扱った箇所です。つまりキリスト者とは何なのか、キリスト者の本質とは何なのか、ということが問われているのです。ここでは「キリストのからだの一部」(15)と記され、さらに「聖霊の宮」(19)であると記されています。
 改めて本日の聖句を確かめて見ましょう。
 「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」(19~20)

Ⅰ キリスト者の本質

 1 聖霊の宮


 聖書は「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮」であると記しています。「宮」というと私たちはすぐに「神社や神宮」という日本古来の宗教施設を思い浮かべます。因みに「神社」は神道の宗教施設であり、「神宮」は皇室に由来する由緒ある施設を意味しています。私たちキリスト者が「聖霊の宮」と呼ばれるのはまことに畏れ多いことです。心して名前に相応しい者でありたく願います。

 2 神の宮


 「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(コリント第一3:16)ここでは私たちの本質は、父なる神ご自身が住まわれる「神の宮」であることが記されています。

 3 キリストの宮



  「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)私たちは「聖霊の宮」であり、「神の宮」であり、「キリストの宮」なのです。つまり、イエス様を信じる者には、いつも三位一体の神が、いつも共に居て下さるだけでなく、内に住んで下さるのです。

Ⅱ 代価を払って買い取られた 


 聖書は「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」(コリント第一6:20)と記しています。この言葉は商業用語であって、その取引に当たっては取引の当事者、取引価格、取引の状況などを考えなくてはなりません。

 1 取引の当事者


 これは神と悪魔との取り引きです。私たちは本来、神によって創造された神の子です。しかし、堕落によって悪魔の奴隷になりました。神が悪魔の手から私たちを奪い返すために、悪魔と取引されたことに深い神の愛を思わずにはおられません。

 2 取引価格


 取引には「価格」が重要なポイントとなります。ここでは「買い取られた」という言葉が使われていますが本来的には「贖われた」という言葉が取引の本質を表しています。
 聖書は「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(ペテロ第一1:18~19)と記しています。
 ここで「あがない」という言葉が出てきます。この言葉の中にこの取引の本質を見ることができます。「買う」という行為と、「贖う」という行為には、本質的に大きな違いがあります。例えば「私はOKスーパーに出かけて大根一本を買います」と言いますが、「大根一本を贖います」とは言わないのです。それは「一本の大根」は、初めから自分の所有物ではなく、他人様のものだったからです。ところが、例えての話しですが、何らかの理由で私の大切なカメラが質屋の店頭に売りに出されたとしましょう。その懐かしいカメラを私は大金を支払って購入しました。この場合、本来、私の所有物であったものが、何らかの理由で他人の手に渡った場合、その品物を再び自分の手に戻す行為を『贖う』というのです。

 3 取引の状況


 取引には通常「駆け引き」があります。しかし、神と悪魔との取引には最初から歩み寄りはなかったように思われます。悪魔は最大級の価格であるキリストの血を要求してきます。神もまた、その価格を値切ることもなく、最大限の犠牲を払って悪魔の要求に応え、取引を成立させます。この取引は決して安易に行われたのではありません。第一に、払われた価の大きいことは買われたものの価値を表しています。第二に、人間の贖いは神の切実な愛の結果であったことを表しています。第三に、その贖いの業が困難であったことを表しています。

Ⅲ 神の栄光をあらわす


 聖書は「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」(19~20)と勧めています。
 ウエストミンスター小教理問答書の第一の質問は、「人のおもな目的は何ですか」です。それに対する答えは「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」とあります。
 私たちは「聖霊の宮」だからといって、決して強いものではありません。聖書は「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」(コリント第二4:7)と記しています。つまり、「神の栄光」「土の器」そのものではなく、その中に入っている「宝」そのものにあるのです。逆説的ですが、神の栄光は強い器ではなく、「弱い、粗末な、もろい器」に、ひびが入ったところから、「宝の光」が外に輝き出るのです。

 使徒パウロは肉体に一つの棘が与えられました。彼はその棘が抜かれるように三度も神に祈りました。聖書は次のように記しています。
 「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
            (コリント第二12:7~10)

最後にもう一度確かめておきましょう。
 第一に、私たちは代価を払って買い取られた者です。
 第二に、もはや自分自身のものではありません。
 第三に、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

 私たちは神のものであるのに、自分のものだと誤解しているところはないでしょうか。自分の存在も、時間も、財産も、仕事も、才能も、すべては神の所有なのです。