前奏               奏楽者
招詞      ヨハネ第一4:15~16 司会者
賛美      新211(聖ナシ)     一同
主の祈り    新826頁    〃
祈祷唱     聖373(新ナシ)     〃
使徒信条    新826頁    〃
交読文41(詩篇第127篇)912頁 〃
祈祷               司会者
賛美      新310(聖245)      一同

聖書エゼキエル3:1~11植村奈美姉
説教「栄光によって語る」井上義実師

祈祷               一同
     -聖餐式-

賛美      新434(聖525)      一同
献金
献金唱     聖378(新ナシ)      〃
感謝                    当番

頌栄      新63(聖383)       一同
祝祷                牧師
後奏               奏楽者
報告               司会者

※パソコンで上の動画を再生して下に移動すると、右下に追従します

信仰の継承③赤山講話⑦
説 教 題:「栄光によって語る」井上義実師
聖書箇所:エゼキエル3:1~11

 バックストン師の赤山講話からです。松江の赤山時代に限らず、バックストン師はきよめのメッセージだけではなく、講解的な聖書の学び、伝道等の各方面について教えられ、実践を施されてきました。それは、健全な信仰者、健全な教会を生み出すためでした。今日の説教は伝道に私たちを派遣することについてです。

Ⅰ.神様の栄光を拝して立つ

エゼキエル書1~3章はエゼキエルの召命の記事になります。区切らずに1つの流れで読むべきです。1章でエゼキエルは、捕らえ移されたバビロンの地、ケバル川のほとりで、幻を通して神様の栄光を見ました。4つの顔と4つの翼を持ち、火や稲妻を出す天的な存在のケルビム(10章参照)に、輪の形をした土台がついて行きます。

エゼキエルがケルビムの次に見たのは、サファイアのようなものでできた王座と、輝きを持っている人のような姿でした(1:26~28)。人はその目で神様を直接に見ることはできないので、神様はご自分を輝きや栄光をまとって見せられています。この神様の臨在の前に、エゼキエルはひれ伏しました。神様の働き人、預言者エゼキエルの出発点はここにあります。

エゼキエルの体験は特別なもの、彼独自のものです。私たちは、神様の栄光を見ることは考えられないのでしょうか。使徒ヨハネはイエス様について、「私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」(ヨハネ1:14)と言っています。

イエス様を通して神様の栄光が、全ての人に表わされています。今も生きて、働いておられるイエス様を、信仰によって拝することができます。イエス様は私たちと共にいるとおっしゃられ、神様の栄光は私たちの内側に届いています。エゼキエルの体験は特別なものですが、このことよりも私たちの内にいただいている恵みは大きいのです。

Ⅱ.神様の言を受けて語る

エゼキエルは神様からの幻を見、神様の栄光の前にひれ伏しました。エゼキエルが神様に自分自身を明け渡し、全く無力なものとして降伏した後に、神様は声をかけられています。

エゼキエルは聖霊の力をいただき、同時に神様の召しの声を聞きます「その方が私に語りかけると、霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた。そのとき、私は自分に語りかけることばを聞いた。その方は私に言われた。『人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす。彼らもその先祖たちも、今日までわたしに背いてきた。』」(2:2~3)。

エゼキエルが遣わされるイスラエルの民は「反逆の家」(2章では4回)です。エゼキエルの使命は、なおも神様に背き続けているイスラエルに裁きを告げるためでした。神様の言葉が巻物に記され(2:10)、エゼキエルに開かれます。その巻物の内容は嘆き、うめき、悲痛でした。神様はこの巻物をエゼキエルに食べさせられます(3:1~3)。

巻物は裁き、刑罰のうめき、痛みを記しており、苦い味で、噛むこともできず、飲みこめないもののように思えます。しかし、その味は「蜜のように甘かった。」(3:3)とあります。同じ表現は、「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」(詩篇119:103)にあります。

神様の言葉は、愛、恵み、祝福として私たちに甘美なものなのです。聖書を読むことが義務ではなく、御言の味わいを是非とも日々、体験していただきたいのです。

エゼキエルの時代のバビロン捕囚はやがて終わり、エルサレム帰還につながっていきます。神様の裁きは救いへと、神様の刑罰は解放へと導くものです。イエス様の十字架における裁きは私たちの救いとなりました。イエス様への刑罰によって私たちは罪や滅びから解放されたのです。裁きの苦さから、救いの甘きへと私たちは移されています。

Ⅲ.神様の取り扱いを経て遣わされる

エゼキエルに神様は栄光を見せられました。ひれ伏したエゼキエルに、神様は語るべき使信を授けられました。エゼキエルが遣わされるイスラエルの民は、反逆の家です。また別の言葉でイスラエルの民は、「額が硬く、心が頑な」(3:7)と記されています。

しかし、神様はエゼキエルの顔、額をイスラエルの民よりも硬くして遣わすと語られました。イスラエルの民に対抗できる力を与えると言われているのです。私たちはともすると、私たちクリスチャンは弱い、世の力の方が強いと諦めるような雰囲気を持ちやすいです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)との言葉を受け止めまよう。

神様は決して無理な要求、できない注文を私たちに出される御方ではありません。神様が私たちに求めておられるのであれば、私たちに必要を備え、その準備を神様が整えてくださっています。ですから、私たちは従うだけで良いのです。

行けと言われる所に行き、成せと言われることを成し、言えと言われる言葉を告げるのです。エゼキエルは厳しい使命が与えられましたが、神様に従い、神様の大きな働きを担っていきました。私たちも神様からの使命が与えられています。誰かとの比較ではなく、大小も、優劣もありません。神様に従い通したエゼキエルのようになりましょう。

 私たちが住むのが、異教の異文化のバビロンの地のようであっても、神様に反逆する民の間にあったとしても、終わりの近さを覚える今こそ、神様の元にある救いと解放を告げるものとさせてください。 

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