前奏                                      奏楽者
招詞              ローマ5:1~2        司会者
賛美              新99(聖ナシ)        一同
主の祈り    新826頁           〃
祈祷唱     聖373(新ナシ)       〃
使徒信条    新826頁           〃
交読文     38(詩篇第121篇)910頁〃
祈祷                                      司会者

賛美              新184(聖435)      一同

聖書              イザヤ1:10~20黛和恵姉
説教              「汚れを潔める力」井上義実師
                信仰の継承(2)雪のように白く(1)
祈祷                                      一同

賛美              新378(聖710)      一同
献金
献金唱     聖378(新ナシ)       〃
感謝                                      当番

頌栄              新63(聖383)       一同
祝祷                                      牧師
後奏                                      奏楽者
報告                                      司会者

説 教 題:「汚れを潔める力」井上義実師
聖書箇所:イザヤ1:10~20

私たちの信仰を振り返るために、バックストン著作集を開いてきました。今まで初期、松江・赤山時代の「赤山講話」を開いてきました。

バックストン師が若く、精力的に動かれた時期ですが、後期にかけての成熟ということを考えると、日本での最後の説教、それまでの英国での説教を収めた「雪のように白く(旧題:雪の如く白く)」も並行して開いていきます。

Ⅰ.ユダの汚れ

 8月は赤山講話からイザヤ6章を開きました。イザヤは神様の臨在に満ちた神殿の幻を見ました。セラピムの姿、賛美があり、イザヤは聖なる神様の前に自らの汚れを深く悟り、絶望を感じています。この時、イザヤは神様の聖なる炎によって潔くされ、新しくされて、ユダの民に遣わされました。

8月の説教の際に、イザヤ書1~5章の話をしました。南王国ウジヤ王の時代に当たります。ウジヤ王の時代は、周辺諸国には勝利し、平和の下に繁栄した時代でした。しかし、ユダの人々は何よりも大切である神様の恵みを忘れていました。

彼らが送った生活は、1:4にあるように罪深く、咎重く、悪に満ち、堕落した状態であったのです。生活の安心によって、逆に心は神様から離れてしまっていました。1:5~6にある姿は、足の裏から頭まで健康なところはなく、傷だらけだと言われています。

これはツァラト、ハンセン病の描写だというのです。ユダの人々の生活は安定し、外見は良くなっても、内側は病み、霊的な意味では死に瀕していました。現代の日本も同じ状況にあります。外側は美しくても、内側は悪しきもの汚れたもので満ちており、霊的には死んだような状態にあります。 

 

Ⅱ.汚れを潔める

 ユダが神様から離れてしまった状況から話しをしました。しかし、神様は18節「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と言われています。

緋という言葉は、原語では人の血が染みついた状態を指しています。紅い花々や、あかね色の夕日のような、美しい赤色ではありません。人の悲鳴や、恨みが聞こえてくるような血がこびりついた赤色です。罪は人を傷つけ、痛め、自分を汚し、おとしめるものです。しかし、ユダの人々が汚れた赤色に染まっていたとしても、天から降りつもって全てを覆う真っ白な雪、冷えた心身を暖かく包む羊の毛をまとうように、ユダは白くされるのです。

何と大きな神様からの恵みの取り扱いではないでしょうか。神様の御心は私たちが罪のままに滅びることではありません。罪を赦すことを願われています。私たちが汚れたままで、神様の聖さや愛を表せない状態にあることではありません。汚れを潔めることを願われています。

 

Ⅲ.潔める方法

 バックストン師は神様からの潔めを受けるための3つの段階、方法を語っています。とても分かりやすく、私たちの教団はこの教えを受け継いできています。

1)悔い改め

 何よりも、自分自身を真実に見つめることです。私たちが救われたいと思わなければ、神様に助けを求めることはありません。私たちが自分の内にある汚れを知り、自分では処分できないと悟り、潔くしていただきたいと願いを持ちます。ここから、神様の業は始まって行きます。自分自身の汚れを認め、主の前に持ちだしていく勇気が、最初の一歩となっていきます。

2)イエス様の血潮

 ヨハネ第一1:7「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」ここにあるように、イエス様の血潮は私たちを救い、潔くしてくださいます。イエス様の血潮に赦されない罪、潔められない汚れはありません。

3)聖霊の働き

 使徒15:8~9「そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」聖霊は私たちの心に光を照らし、熱となり、力となって私たちの良い意思を支え続け、潔めに歩み続けて行く力を与えてくださいます。

 私たちは神様の潔さへの渇望を持ち、生活に証しできる者となろうではありませんか。

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