説 教 題:「神様の真実に生きる」        井上義実師
聖書箇所:コロサイ3:12~17

 荻窪栄光教会の美点に新年聖会の開催が挙げられます。現在、教会で聖会が開催されないきよめ派の教会も多いことです。歴史あるさまざまな聖会も出席者は減少気味です。きよめ派にあって、聖化のメッセージが語られない、届いていかない現状をどう捉え、対応するか問われています。幾つも原因を挙げることができるでしょうが、
1)教会がこの世に合わせて世俗化していないでしょうか。この世の価値観、この世の感覚が支配的になってきているのかも知れません。高きに留まることができず低きに流れるのは人の常でもあります。
2)きよめのメッセージを伝える努力をしてきたのでしょうか。過去の聖徒たちの言葉を今に伝えていく努力や、現在の言葉に置き換えていくことが必要でしょう。
3)きよめの証しがなされているでしょうか。あの人のようになりたい、あの人のように生きたいと願う姿を先に歩む私たちが持ち得ているのでしょうか。
課題は多くありますが、きよめは神様が導かれる恵みであり、生きて働くものです。終末へと向かっていく、暗さや闇が深まっていく、これからの時代にこそさらに必要なものであるはずです。

Ⅰ 真実をゆがめるもの 

 私たちの教団の初代委員長であり、霊的な指導者であった小島伊助師のコロサイ書講解にこのようなくだりがあります。B.F.バックストン師の最後の来日(1937年、S12年)の特別講演の質問に「きよめの良い参考書は何か」と問われ、「パウロの小書簡をよく読むように」との答えが記されています。ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケ… 従って、今日はこの手紙全体から見ていきたいのです。コロサイという町は小アジアの内陸部フルギヤ地方、ラオデキヤ、ヒエラポリスといった都市に近く、この時代はそう大きな町ではなかったようです。コロサイ教会にも、使徒時代の他教会と同様に異端が入り込もうとしていました。詳しくは解りませんが、「むなしいだましごとの哲学」(2:8)とは、知識を求める理性至上主義ですし、ギリシャ哲学の流れがあったでしょう。「食物と飲み物…祭や新月や安息日など」(2:16)とは、何より形を求めるユダヤ人による律法主義と言えます。「天使礼拝」(2:18)とは、礼拝の対象ではない、天使を崇める神秘主義等が挙げられています。

これらは今の時代にも、形は変わっても生き続けています。私たちを神様の真理から引き離そうとする悪の働きなのです(ガラテヤ5:7-9)。私たちは一層、目を覚ましていなければなりません。

Ⅱ 真実に導かれていく

 正しい教えに立つために、1章で「福音」が強調されています。福音は字義通り「福」=良い、幸いな、「音」=知らせ、音づれです。明治元訳聖書、最初の日本語訳聖書以前の漢訳聖書から来ている言葉だと言われます。

福音は真理の言葉(1:5)、実を結んで成長し(1:6)、主の働き人から学び(1:7エパフラス)、望みを持たせ(1:23)、全ての人に伝えられる(1:23)ものとしてここに描かれています。旧約聖書では敵に勝利した告知(イザヤ40:9、52:7)、勝利のほめ歌でした。新約聖書では私たちの究極の敵である私たちを汚す罪、滅びに向かわせる死、私たちを神様から引き離そうとする悪魔の力、これら全てにイエス様は十字架によって勝利をされました。この福音によって私たちは救われ信仰に生きる(ローマ1:16・17、「すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」「信仰による義人は生きる」)。福音は、義と認められる、新しく生まれる、罪が赦される、神様と和解し平安を得る、子とされて相続人とされる、永遠の命を受けるという救いの実がもたらされます。例え、救いがここまでであっても十分でしょう。しかし、この手紙の頂点は、さらに高い恵みを指し示しています。奥義と記されている内住のキリストです(1:27)。至高、永遠、完全であって、愛と義と聖であり、真理と光である…このイエス様を内に頂くのは、全てを超越したことである。「キリスト、わが内にありて生きたもうなりが、きよめなのだ。」(竹田俊造師)。この尊い御方を内に宿しているならば、汚れた存在であるはずはない。キリストが内に来てくださるならそこは全てきよくされるのです。

Ⅲ 真実を内にいただく

 救いを頂き、さらにキリストを内にいただくきよめへの導きとはどのようなものでしょうか。私たちの信仰を言い表している信仰告白「わたしたちは、キリストの血によってすべての罪からきよめられ、神のものとされ、聖霊のバプテスマを受け、その内住による全き支配によって、…」(教団信仰告白)はこのように宣言しています。イエス様を救い主と告白する信仰によって義とされ、救いに与った者が神様のきよさを真実に祈り求めるなら、聖い神様の霊が圧倒的に臨んで下さいます(ルカ11:9-13「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」、ローマ8:9-11「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。」) 。聖霊の支配、満たし(B.F.バックストン師、「聖霊の占領」)を受ける。水ではなく火によるバプテスマ(マタイ3:11「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」)であり、聖霊が汚れを焼ききよめられる(レビ記6:12-13「祭壇の上の火は、そこに燃え続かせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、たきぎをその上に燃やし、燔祭をその上に並べ、また酬恩祭の脂肪をその上で焼かなければならない。火は絶えず祭壇の上に燃え続かせ、これを消してはならない。」)ことができます。この火は私たち自身がささげ続けられることによって、絶えることなく私たちをきよめ続けていくのです。火ときよめは、聖霊とイエス様の不可分の共働の働きによってなされていきます。この手紙はきよめをイエス様の働きの面から記しています。私たちが聖霊によってきよめられ、イエス様が住んで下さるきよい器となりましょう。

今朝よんでいただいた箇所はこの手紙の結論に当たります。私たちがきよめられて持つことのできる実際の実です。この年、この一つでも聖霊によって、主にあって結ばせていただきましょう。