説 教 題:「イスラエルへの祝福」聖書各巻緒論(2)  井上義実師
聖書箇所:出エジプト記19:1~14

2021年4月から聖書通読を進めています。聖書全体を読み進めるために、一助として聖書各巻の緒論を始めました。今回はその第二回となります。

Ⅰ.基本的なことがら

●著者:伝統的な受け止めとしてモーセ(モーセ五書の第二巻)
 「さて」(1:1)という言葉が冒頭にあるように、創世記の続きを同じ著者が記していることを示唆しています。
●執筆年代:出エジプトの年代を早期説としてB.C.1450年頃。
●大区分:1~5章   エジプトでの迫害、束縛、モーセの準備
     6~18章  10の災い、過越し、脱出、紅海渡渉、シナイへの旅
     19~40章 シナイ山、十戒・律法の授与、幕屋の設立

Ⅱ.基本的なメッセージ:「贖い」

神様の救いは、贖うという行為によってなされます。贖いがあって救いになります。

出エジプト6:6「あなたがたを…救い出し、…大いなるさばきによって贖う(ガーアル)。」と記されています。原語では幾つか「贖う」と訳された言葉があります(特に大切なのがカーファル)。この「贖う」(ガーアル)は失われたものを、代価を払って買い戻すということです。

アブラハムに「あなたは祝福となりなさい。」(創世記12:2)と語られた子孫への祝福が、エジプトでの虐げによって失われていたのです。神様は力強い御手を伸ばされて、ナイル川の水を血に変え、蛙、ブヨ、アブを発生させ、家畜の疫病、腫物を流行らせ、雹を降らせ、いなごを襲来させ、暗闇を起こされました。10番目の災いは、全てのエジプトの長子が殺される恐ろしい出来事になりました。おごり高ぶったエジプトのファラオとその民への神様の裁きであったのです。

イスラエルの民には、神様の裁きが過越しますが、そのためには各家庭でほふられた小羊の犠牲の血という代価が必要でした。過越しはイスラエルが代々守るべき祭として、記念となりました。

やがて、新約聖書に至って、私たちの贖いはイエス様の十字架によって成就したのです。

神様の裁きは、罪や汚れの一切ないイエス様の上に置かれ、イエス様の尊い血潮が犠牲として流されました。イエス様による贖いによって、失われていた私たちが神様の元に立ち帰ることができたのです。

象徴的な出来事として、イエス様と弟子たちが最後に守った過越しの食事が、イエス様の十字架によって贖いを記念するパンとブドウ汁の聖餐に変わったのです。今私たちは過越しの食事ではなく、聖餐のパンとブドウ汁を贖いの記念としているのです。 

Ⅲ.基本的なメッセージ:「契約」

神様はアブラハムと契約を結ばれていました。「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。」(創世記17:7)。

神様が苦役に苦しんでいたイスラエルの民を、エジプトの地から贖い出されたのは、真実であり、愛である神様が契約を守られたからです。神様が人に対して責任を負ってくださっています。

今朝の聖書箇所は、シナイ山での十戒授与の場面になります。これは人が神様に対して責任を果たす契約なのです(4-6節)。彼らが十戒を守ることによって、神の民として聖別され、神の祝福を受け継ぐ者とされていくのです。

贖いと契約が記された出エジプト記こそが旧約聖書の土台であり、心臓部であると言われています。創世記は旧約聖書、聖書全体の序論になります。出エジプト記以降の旧約聖書37巻は、出エジプト記の上に成り立ち、出エジプト記の流れを汲むものであると言えます。出エジプト記以降のイスラエルの民の歴史は、律法による契約の元にあったのです。

それでは、新約聖書の時代に生きる私たちはどうなのでしょうか。ガラテヤ3:23~26には、イエス様以前の時代には、律法はイエス様への信仰に導く養育係であったと言っています。今や私たちは、イエス様によって神の子とされ、イエス様と共にあるので養育係は不用になっています。

しかしこれは、律法が不要になったのではなく、「いのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放した」(ローマ8:2)とあります。私たちは聖霊によって内なる力と命が与えられて、律法を全うすることができるのです。

私たちは繰り返されなければならない動物の犠牲ではなく、一度限りの完全なイエス様による十字架の贖いが与えられています。律法を石板に刻まれたものではなく、心に刻むものなのです。

出エジプト記を土台とし旧約に貫かれていた契約は、今や新しい形で新約の契約となっているのです。文字として刻まれていた戒め、規定であったものが、命のある愛によって動かされていく、神様の愛に対する応答のささげものとなりました。

2021.5.30