出席連絡
司会:六田 崇兄 奏楽:長谷川綾子姉
前 奏 奏 楽 者
開 会 唱 聖366 聖 歌 隊
招 詞 イザヤ11:1~5 司 会 者
賛 美 新18(聖ナシ) 一 同
主の祈り 新826頁 〃
祈 祷 唱 聖373(新ナシ) 〃
使徒信条 新826頁 〃
交 読 文 50(イザヤ53章)919頁(新改訳)〃
祈 祷 司 会 者
賛 美 新69(聖ナシ) 一 同
合 唱 「久しく待ちにし」 聖 歌 隊
聖 書 ルカ1:24~38 丹羽嘉崇兄
説 教 「主の母マリア」 中島秀一師
祈 祷 一 同
賛 美 新88(聖394) 一同
献 金
献 金 唱 聖378(新ナシ) 〃
感 謝 当 番
頌 栄 新63(聖383) 一 同
祝 祷 牧 師
閉 会 唱 聖389(新ナシ) 聖 歌 隊
後 奏 奏 楽 者
報 告 司 会 者
説教題:「主の母マリア=処女懐胎」
聖書箇所:ルカの福音書 1:26~38
御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(1:35)
本日は記念すべき第一アドベント(待降節)です。この日のために「処女懐胎」のメッセージを取り上げます。
処女が懐胎することはあり得ないことです。しかし、キリスト教においては、そのあり得ないことが、最も重要な教理として位置づけられているのです。しかも2千年の長い歴史において、廃ることなく、今なお信じ続けられ、拡大し続けているのです。主の母マリアに関する記事は思いのほか僅かです。その殆どが主イエスの降誕に関わっています。その他は「神殿におけるマリア」(ルカ2:41~50)、十字架刑場のマリア」(ヨハネ19:25~27)、「聖霊降臨を待つマリア」(使徒1:12~14)、その後にはマリアは聖書には登場していません。。
Ⅰ.処女懐胎の預言
救世主の来臨は旧約時代から預言されていました。イスラエルの人々は一日千秋の思いで救世主を待望しました。
イザヤは「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ9:6)と預言しています。
イザヤが預言した救世主(メシア)像は、罪を犯した人間の罪の裁きを受けられる方、それだけでなくその犠牲によって神の赦しを勝ち取る方、つまり神と人との間を執り持つ仲保者としての資格を持つお方でした。
救世主としての役目を果たすためには、必然的に「完全に神であり、完全に人である」ということが求められます。そのお方こそが神であり、人であられた「イエス・キリスト」でした。その条件を満たすために「救世主」は「処女懐胎」を通して神が遣わされる必要がありました。それらはすべて人間を愛する神が計画され、実行された奇跡なのです。
Ⅱ.処女懐胎の告知
1.御使の告知
エリサベツの妊娠から六ヶ月目に御使ガブリエルが処女マリアのところに突然やって来て「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられます。」と挨拶しました。聖書は御使の言葉を聞いたマリアの心情を「マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」と記しています。
すると御使は「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」(ルカ1:30~33)と伝えました。救世主の来臨は旧約の預言とはいえ、その成就が何故、今この時であり、なぜマリアなのか、についての疑問は残りますが、それらの課題はまた別な機会に譲って、ここでは「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人をしりませんのに。」(34)というマリアの反応に注目します。
2.夫ヨセフの反応
マリアは当時、ダビデの家のヨセフという人と婚約していました。一つ間違えば不義密通の汚名をかぶせられる事態になるとも限りません。事実、「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(マタイ1:19)と記されています。
3.マリアの人柄
マリアが御使の告知に対して「このことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」、また、幼子を礼拝しに来た羊飼いたちの話したことに人々は驚いたのですが、マリヤはこれらのことをすべて「心に納めて、思いを巡らしていた」(ルカ2:19)、さらにヨセフとマリアが神殿でイエスを見失い、捜し回った際に、「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)と言われた時に「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」(ルカ2:51)のです。
人々はマリアを表して、「純潔・謙遜・信仰・服従・思慮深さ」などを上げます。しかし、これらの特質はどこまでも一般論であってマリアの特質としては少し異なるように思います。マリアは御使いの告知を聞いても「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)と冷静沈着に反問しています。私はマリアの人柄として最も適切な表現は「救世主の母として神が選ばれた人」であると思います。
Ⅲ.聖霊による懐胎
マリアは御使いの告知を聞いても「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)
という疑問を解くことはできませんでした。聖書はマリアの疑問を解くために「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:35)神は最後の一手をマリアに差し出されました。すべての神の業は「聖霊による」ことを告げられたのです。
ここに三位一体の神が啓示されています。「聖霊が臨み」(聖霊なる神)、「いと高き方」(父なる神)、そして「神の子」(御子なる神)です。つまり、イエス・キリストの受肉によって三位一体の神が勢揃いしたのです。
ここに来て聖書は「見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは何もありません。」(36~37)とダメ押されます。これに対してマリアの素晴らしいところは、この言葉を聞いてすべてを理解したことです。
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。』すると、御使いは彼女から去って行った。」(38)のです。「聖化の恵み」の一つに「内住のキリスト」があります。
この真理を最も早く経験したのは「イエスの母として選ばれたマリア」です。私たちも聖霊となって降臨された「主イエス・キリスト」を心の中心にお迎えいたしましょう。これこそ、クリスマスに最も相応しい私たちキリスト者の在り方であります。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)
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