聖書各巻緒論46・パウロ書簡2
説 教 題:「自由を相応しく用いる」    井上義実師
聖書箇所:コリント第一9:19~27

 聖書各巻緒論もパウロの手紙の2番目、コリント人への手紙第一となります。

1.コリント伝道の進展


 コリントの町は、地中海を渡っていく、ローマからアジアへの東西貿易の最短ルートの中継点にありました。コリントは諸外国の人々、他国の貿易品、それに伴うお金が行き交う商業が栄えた町でした。コリント独自の工業も盛んでした。コリントは繫栄した豊かな町でしたが、遠い諸外国の神々をも祭った神殿が数多くあり、世俗的な、風紀の悪い町でした。


 パウロは第二回伝道旅行で、聖霊によって行く道が狭められる経験をしました。パウロはアジアの港町トロアスでマケドニア人の幻を見ます。パウロは直ちにエーゲ海を渡り、マケドニアに上陸します。ヨーロッパ伝道の第一歩になります。パウロは歩いてピリピ、テサロニケ、アテネからコリントに着きました。この時のパウロは「弱く、恐れおののいていました。」(2:3)とあります。パウロは直前のアテネ伝道は大きな意気込みを持っていたでしょうが、上手くいかず、失望していました。また、コリントのキリスト教とは程遠いような、世俗的な雰囲気に恐れを感じてもいたでしょう。


 この世の悪に染まっているようなコリントの町ですが、神様が先立たれて、この町での働きを進めていかれます。パウロを助けるアキラ、プリスキラ夫妻(使徒18:2)、パウロを支援するティティオ・ユスト(使徒18:7)を神様は備えられていました。多くの人々がイエス様と出会い、救われていきます。パウロは神様の励ましを受け、1年半この町に留まって福音を語り続けたのです。「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。』そこで、パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」(使徒18:9~11)。このようにして、コリント教会はアカイア宣教の拠点となっていきました。

2.コリント教会の内情


 コリント教会はパウロが伝道を開始しましたが、その後伝道者アポロ、使徒ペテロも関ります。有力な伝道者がコリントの群れを、アカイアの中心的な教会として成長させていきました。しかし、コリント教会には多くの問題がありました。パウロはこのコリントでは、アテネでの失敗に学んで、十字架の福音を大胆に、包み隠さずに語りました「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1:18)。

ところが、コリントの信仰者たちは福音を十分に理解しませんでした。イエス様を信じることはイエス様に結び合わされることですが、指導者に付いて分派がありました。町の雰囲気に引かれて、不品行な罪深い者もありました。また、逆に律法主義者のように禁欲的な生活を送る者がありました。異言を語って教会に混乱を引き起こす者もいました。パウロはこれらの諸問題に対して、コリント第一・コリント第二の長い2通の手紙を書き送りました。他にも2通の手紙が書き送られたことも文中にありますし、パウロの代理の使者も直接に送られました。これらの多くの問題がありながらも、神様が導かれ、有力な伝道者が関わり、成長していた、神様に愛されていた教会と言えるでしょう。

3.コリント教会の自由


 イエス様の十字架のあがないによる救いは、私たちの心と魂に自由と安息をもたらします「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」(ヨハネ8:31・32)。私たちは神様にある自由を持っていますが、コリント教会の信仰者は自由を自分勝手に用いていました。もちろん、パウロは自由を持っていましたが、その自由を自分のために用いないで、神様のためにささげています「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです。」(ガラテヤ5:13・14) 。

パウロは律法にあるユダヤ人、律法のない異邦人、弱い人、…どんな人に対しても、その救いに仕える者であると語っています。例えるなら、競技場で走るランナーのようであり、拳闘をするボクサーのようであると言います。ランナーは1秒でも早くという、自分自身との戦いです。ボクサーは敵を倒すために格闘する戦いです。パウロは自らを、自分自身に厳しい者として、敵との戦いにも全力を尽くすものであると言っています。それは、神様にある勝利、栄誉、祝福を得ていくためなのです。自由を自己満足のために用いるのではなく、他者のために用いていく、神様の御心を満たしていくために用いていくことが大切なのです。

  2千年前、世俗的な雰囲気に取り囲まれていたコリント教会は特別な環境にあったことでしょう。しかし、今のこの時代に生きる私たちには、この教会に起こってきたことが常に起こりうる危険を示しています。世俗的な環境でもコリント教会が成長していったように、私たちの教会もこの時代の中で、きよさ、愛、献身を持ちながら、成長していくものでありましょう。