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礼拝出席


 

 


 

※4人目以降は、3人分を送信後に再読み込みして記入してください

前奏                                      奏楽者
招詞              ゼカリヤ9:9~10      司会者
賛美              新23(聖ナシ)                一同
主の祈り    新826頁           〃
祈祷唱             聖373(新ナシ)       〃
使徒信条    新826頁           〃
交読文             14(詩篇第37篇)890頁(新改訳)〃
祈祷                                      司会者

賛美              新108(聖402)      一同

聖書              ヨハネ12:20~36丹羽嘉崇兄
説教              「一粒の麦として」       井上義実師
祈祷                                      一同
                ー教会役員任命式ー
                ー勧士任命式ー

賛美              新387(聖314)      一同
献金
献金唱             聖378(新ナシ)       〃
感謝                                      当番

頌栄              新63(聖383)       一同
祝祷                                      牧師
後奏                                      奏楽者
報告                                      司会者

※パソコンで上の動画を再生して下に移動すると、右下に追従します

説 教 題:「一粒の麦として」  井上義実師
聖書箇所:ヨハネ12:20~36

4月新年度を迎えました。教会暦では、イエス様が最後にエルサレムに到着された棕櫚の主日を迎え、受難週が始まります。荻窪栄光教会では創立記念礼拝を迎えました。今週は、イエス様が十字架へと歩まれた苦難と従順を覚えて、日々を歩みましょう。

Ⅰ.求める者となる

 過越しの祭りが近づいていました。過越しの祭りの礼拝を守るために、エルサレムは人でごった返していました。その中に数人のギリシア人改宗者がいたのです。どこの出身かは分かりませんが、ギリシア文化で生まれ育っていました。

どのような経緯かも分かりませんが、天地を造られた真の神様を知り、ユダヤ教に改宗していました。彼らは、エルサレム神殿に礼拝に上っても、一番外側の異邦人の庭までしか入れません。仕切られている柵には、ここから先に異邦人が立ち入るならば殺されるという警告が書かれています。それでも、過越しの祭りに与りたいという願いを持って、遠くからはるばるエルサレムに来ていたのです。

祭りには大勢の信心深いユダヤ人たちが来ていても、イエス様に関心を持ち、イエス様を訪ねてくる者たちは誰もいませんでした。このギリシア人たちがイエス様に会いたいとやって来ました。彼らが何を願ってやって来たのかは詳しくは分かりません。

ギリシア人たちが、内なる渇きをもっており、真理を求める求道者であったことが分かります。神様に真理を求める心は、民族や国籍など何も関係ありません(参照:使徒8章、エチオピア人の高官は礼拝のためにエルサレムに上り、聖書を求め、読もうとしていた)。

求める人の心と思いを、神様はご覧になっています(ヤコブ4:8)「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」。私たちはイエス様と出会い、イエス様を知っています。霊的に、信仰的に満足することなく、常に求める者でいましょう。

Ⅱ.犠牲を払う者となる

 イエス様ははるばる訪ねてきた求道者に、挨拶などは抜きにして答えを直接に語られています。ユダヤ人の宗教的指導者ニコデモにも同じようにされました。イエス様が語られたことは、ご自分が一粒の麦となって死なれることによって、永遠の命の実が結ばれることでした。

もう目前に迫っていましたイエス様の十字架の死によって、信じる者への罪の赦しと、永遠の命が与えられることを示されています。誰にも身近なものであり、とても印象深い、一粒の麦というたとえを語られました。

一粒の麦はどこかに飾るもの、大切に取っておくものではありません。食べるため以外には、麦粒は地にまかれるためにあります。麦粒がまかれると暗い土に隠されてしまいます。麦粒は元の姿を失っても、そこから新しい命が芽生え、大きく成長して何十倍以上の実を結ぶようになります。一粒の小さな麦にも命が宿っているからです。

イエス様の十字架の死と、死からの復活によって表された神様の命は、イエス様を信じる者に働いています。麦粒から新しい麦の穂が生まれるように、イエス様と同じ命を得させてくださるのです。イエス様は自らを愛さず、人を愛し、命をささげられたことを十字架の事実は告げています。

イエス様は、私たちにもご自身にならうようにと求められている(25・26節)。私たちはイエス様と同じになれるはずはなく、同じになりなさいと求められてはいません。ついて来なさい、仕えなさい、ならいなさいとおっしゃっています。

Ⅲ.御声を聞く者となる

 神様であったイエス様でも、全ての人の罪を負う十字架の死の重荷に心を騒がせておられます。ゲッセマネの園の祈りでもそうであったように、苦しみを覚えられても神様の御心に従う決意は揺るがせられなかったのです。

その時、神様の御声が響いています(28節)「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」。これを聞いて、ある者は雷だと言い、ある者は天使の声と言っています。雷だと言った人たちは現実主義者と言えるでしょう。

この人たちは信仰という壁を越えられずに、神様を信じることはできません。天使が語ったと言った人たちは神秘主義者と言えるでしょう。この人たちは信仰を持つことはできるでしょうが、神様の声と天使の声を取り違えているように、自分の考えで神様を誤って受け止めてしまいます。

神様の御声を正しく聞き取る力を持つことが大切な信仰者の姿なのです。イエス様が、いつも神様の御声に聞き従われたように、私たちもイエス様の声に聞き従っていくものなのです(参照:ヨハネ10章、羊を知っている良い羊飼いの声に羊は従う)。

イエス様によって御声を聞くことは、具体的には、私たちが聖書を読み、御言の内に身を置いていくことなのです。私たちが聖書を身近に置き、常に読み返せるように神様は聖書をくださっています。

 十字架の死によって永遠の命を与えてくださったイエス様にならう者として、私たちが正しくイエス様に従って行けるように羊の大牧者あるイエス様に導いていただきましょう。

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