前奏 奏楽者
招詞 ヘブル4:15~16  司会者
賛美 新18(聖ナシ) 一同
主の祈り 新826頁 〃
祈祷唱 聖373(新ナシ)     〃
使徒信条 新826頁 〃
交読文 5(詩篇第19篇)882頁(新改訳)   〃
祈祷 司会者

賛美 新172(聖604)     一同

聖書 ゼパニア3:14~20 植村奈美姉
説教 「救いの恵みを喜ぶ」 井上義実師
聖書各巻緒論36・預言書14
祈祷 一同

賛美 新457(聖703)     一同
献金
献金唱 聖378(新ナシ)     〃
感謝 当番

頌栄 新63(聖383)     一同
祝祷 牧師
後奏 奏楽者
報告 司会者

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説 教 題:「救いの恵みを喜ぶ」  井上義実師
聖書箇所:ゼパニヤ書3:14~20

聖書各巻の緒論を語ってきました。

旧約聖書の最後の区分12小預言書の9巻目ゼパニヤ書になります。

Ⅰ.ゼパニヤへの裁きの使信

ゼパニヤは南王国ユダでヨシヤ王の時代に神様に仕えました(1:1)。ゼパニヤ書の内容から見れば、ヨシヤ王による宗教改革以前、ヨシヤ王の初期の時代と受け止めることができます。ゼパニヤの4代前にはヒゼキヤの名が出てきます。

ヒゼキヤという名前は一般的な名前ですが、ユダ王ヒゼキヤであるとも考えられます。ゼパニヤ書の言葉は大胆で勇気があり、預言者ゼパニヤの熱情と素直さを見ることができます。1:1は表題ですので別にします。1:1以後は3つの区分になります。

1)1:2~2:3は、エルサレムへの裁き。
2)2:4~3:8までが、諸国の滅亡とユダへの警告。
3)3:9~20までが、主の日における救い。

が述べられています。

特に第二の区分の裁かれる諸国とはペリシテ(2:4-7)、モアブ・アンモン(2:8~11)、アッシリア(2:12~15)、エルサレム(3:1~8)です。イスラエルを苦しめた周辺の悪しき国々に神様が報復されます。しかし、同時にユダ自身も罪咎の責めを免れないことが記されているのです。

Ⅱ.ゼパニヤが見た主の日

第一の区分はエルサレムへの裁きが語られています。ヨシヤ王の2代前のマナセ王は偶像礼拝によって、ユダを暗黒におとしめました。マナセ王の悪は未だはびこっていたのです「バアル、偶像の祭司、屋上で天の万象を拝む者ども、ミルコムに誓いを立てる者ども」(1:4~6)と、これらの偶像礼拝、悪い慣習が記されていました。

神様は責任を持って民を導く指導者たちにより厳しい裁きをくだされます「首長たち、王子たち」(1:8)。1:10からはエルサレム全体に区別なく災厄が降りかかることが記されています。この一つの区分の中に、「主の日」としての「日」が18回記されています。

やがて主の怒りによって、エルサレムにも滅びの日が来ることが預言されています。新バビロニア帝国のネブカドネツァルによって、エルサレムは2回包囲されます。遂に2回目にはエルサレムは陥落します(列王第二25章)。その有様は「苦難と苦悩、荒廃と滅亡、闇と暗黒、雲と暗闇、角笛とときの声、城壁と塔が襲われる」(1:15~16)と記されている通り、悲惨な結果を招きました。

イスラエルは選ばれた民と自認していました。聖なる都エルサレムは永遠に存在すると思っていたのです。彼らの高慢と一人よがりな思いに神様は鉄槌をくだされました。信仰者が神様に背き、従わず、神様以外のものに心奪わることは恐ろしいことです。他人ごとではなく、誰もが同じ道をたどってしまうことを学ばなければなりません。

Ⅲ.ゼパニヤが見た回復の栄光

神様はゼパニヤに、ご自身の裁きによる滅びを語られただけではありません。神様は人に痛みを与えられても、苦しみを通されても、そのままにされているような御方ではありません。3:9からは回復の約束が、3:14からは恵みの喜びが歌われています。神様の裁きは取り除かれ、敵は失われます。エルサレムから散らされた者は集められます。彼らの受けた恥は誉に変わります。

何よりも、「主はあなたのただ中におられる。」(3:15)、「主はあなたのただ中にあって救いの勇士。」(3:17)とあります。主の臨在の回復は、後のゼカリヤ書にも記されています。「わたしは来て、あなたのただ中に住む。」(ゼカリヤ2:10~11)とあります。ゼカリヤはゼパニヤの時代から120年ほど後になります。ゼパニヤの時代には南王国ユダはまだ存在していました。

やがて南王国ユダも滅び、バビロンへと引かれていきます。ゼカリヤは、バビロン捕囚後、エルサレムへの帰還が許され、神殿を再建する時代になります。ゼパニヤへの神様の臨在の回復の預言は、ゼカリヤにおいて成就したのです。主が共におられる臨在の恵みは、旧約聖書では特別なものでした。神の民を神様は見捨てられなかったという真実を、歴史を通して私たちは見ることができます。

旧約聖書の時代を越え、「インマヌエル・神が私たちとともにおられる」というイエス様がお生まれになりました。イエス様の十字架による救いは、全ての人への恵みとして開かれています。イエス様を目に見ることはできませんが、イエス様は私たちの最も近くにおられます。

イエス様はやがて再び来られ、全ての秩序を新たにされます。その時に神様と人との間の全ての隔ては取り除かれるのです「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。』」(黙示録21:3~4)。

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