前奏     奏 楽 者
招詞 イザヤ40:29~31 司 会 者
賛美 新36(聖289)    一   同
主の祈り 新826頁     〃
祈 祷 唱 聖373(新ナシ)    〃
使徒信条 新826頁    〃
交 読 文 35(詩篇第110篇)908頁    〃
祈 祷       司 会 者

賛  美 新251(聖475)     一   同

聖  書 詩篇57:1〜11 桂以そ美姉
説  教 「守り助ける御方」 井上義実師

祈  祷   一   同

賛  美 新402(聖723)    一   同
献  金
献 金 唱  聖378(新ナシ)        〃
感  謝          当   番

頌 栄   新63(聖383) 一   同
祝 祷   牧   師
後 奏   奏 楽 者
報 告   司 会 者

説 教 題:「守り助ける御方」    井上義実師
聖書箇所:詩篇57:1~11

9月第一聖日、振起日を迎えました。まだまだ残暑は続いていますし、台風の季節も迎えました。コロナ禍の第7波もまだまだ厳しい状況にあります。私たちを巡る環境は痛みが多いです。しかし、神様から力をいただいて、霊的な実りを祈りつつ、秋の働きに向かっていきましょう。

本日の聖書箇所では、神様はどのようなことがらにおいてもご自分の時を持っておられることが分ります。私たちは、神様の計画を十分に知り得ません。時に私たちは焦り、不安を覚え、揺らぐような思いになることがあります。

Ⅰ.主にあわれみを乞う 

ダビデは、ベツレヘムの野原で羊を飼っていた少年時代に次の王として、神の人サムエルから油注ぎを受けました。ペリシテとの戦いで、巨人ゴリヤテに勝利しました。サウルの家来として召し出され、戦場では次々に功績を立てました。

サウルの娘ミカルと結婚するなどダビデ自身は順境にありました。人々は、サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺したとダビデをほめたたえました。しかし、理不尽なサウルの嫉妬によって命を狙われ、ダビデは王宮を追われて、一人で落ち延びることになります。

サウルに追われ、ユダの地で行き場を失ってしまったダビデは、ゴリヤテの故郷であるぺリシテのガテにまで逃げなければならなくなりました。ガテの王アキシュの前で、ダビデは身を守るために狂人の振りまでして窮地を脱します(サムエル第一21:13)。

サウルはイスラエルの正規軍を送ってダビデの命をつけ狙います。片やダビデの一党は、親族や不満分子の反政府ゲリラのようなものでした(サムエル第一22:1・2)。人里離れた荒野を逃げ続けなければなりません。本篇の1節に「私をあわれんでください。」と2回ダビデは訴えていますが、正しくダビデの魂からの叫びなのです。この苦しい状況からの救い、助けを、神様に心を注ぎ出して、切に祈っています。

 

Ⅱ.主の御手に委ねる

この詩篇は、サムエル第一24章に出てきます、死海のほとりエン・ゲディの荒野の洞穴でのできごとが歌われています。サウルはダビデがエン・ゲディにいると聞いて、3千人の精鋭を率いて探索に来ました。サウルは日中の暑い時間に、休むために洞穴に一人で入っていきました。安全が確保されているとサウルの一行の誰もが思っていたのです。

しかし、その奥にはダビデ一行が隠れていました。ダビデの部下たちは、神様が与えてくださった絶好の機会が来ました。サウルを一思いに殺してしまいましょうと勧めました。しかし、ダビデは部下たちを静めて、神様が油注がれた方に人は手を下してはいけないと諭しました。ダビデは、印のために、そっと休んでいるサウルの上着の裾を切り取ったのです。ダビデは、そのことさえも、不義な事をしているという心迫られる思いがしました。

サウルを殺すことは、何とでも理由は浮かびます。「自分がサウルを殺さなければ、サウルに殺される正当防衛なのです。」「神様は王となるように自分に油を注がれています。ここでサウルを殺しても、神様の御心を早めることに過ぎないことです。」等々。しかし、ダビデは自分の手では何も行いませんでした。

神様のご計画は、神様の御手により、神様の方法で進められるべきものであるとダビデは考えました。ダビデは神様に全てを委ねることを選びました。ダビデが選んだ道は、神様の御前に正しく、神様の御心に相応しかったのです。 

Ⅲ.主の義に立ち続けて行く

 サウルが離れてからダビデは事の次第をサウル一行に明らかにします。神様から立てられたサウルに悪意をもって報いなかったダビデの真心は、サウルにも通じたように思えます。サウルは「おまえは私より正しい。私に良くしてくれたのに、私はおまえに悪い仕打ちをした。」(サムエル第一24:17)と言っています。

サウルは、ダビデの方が御心に叶う正しさに生きていると知りました。しかし、サウルは自分の心を変えず、ダビデを追い続けました。サウルの最後は、ギルボア山でのペリシテ人との戦いに敗れ、ヨナタンらと共に戦死します。その後、ダビデは時を経ながら全イスラエルの王とされていきます。

ダビデはエン・ゲディの荒野の洞穴で、自分の感情、自分の考えに流されず、神様の前に正しさを持ち得ました。私たちが神様の前に正しさを持ち得るのは自分の考えに立ち、自分の行いに頼るのではありません。私たちは、何よりも大切なこととして、イエス様の十字架の贖いによって義とされている者です(ローマ3:22~24)。

神様の義に与るということは、神様の救いに与るということです。私たちは不完全で間違いを犯しやすい自分の義に立つのではありません。完全であり、全てを越えて正しい神様の義に立ち続けることが大切です。神様の救いに生き続けていくということなのです。

ダビデはエン・ゲディの洞穴のできごとを越え、様々な体験を重ねながら一国の王とされ、周囲を平定し、イスラエルに繁栄と平和の基礎を築いていきました。ダビデは、神様の導きを喜びつつ、歌っています(7~11節)「神よ 私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌い ほめ歌います。私のたましいよ 目を覚ませ。琴よ 竪琴よ 目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。」。私たちが神様の義に立ち続けているならば、神様は確かな導きと安全、祝福を保証されています。

9月を迎え、夏から秋に移り変わり、クリスマスへと進んで行きます。今日も、神様によって義とされ続け、新しい思いをいただき、新しい力に満たされて力強く歩み出しましょう(イザヤ40:27~31)。

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