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礼拝出席


 

 


 

※4人目以降は、3人分を送信後に再読み込みして記入してください

司会:藤村隆太兄 奏楽:宮澤幸恵姉

前奏奏楽者
開会唱聖366        聖歌隊
招詞      ヨハネ12:23~24司会者
賛美      新24(聖479)     一同
主の祈り    新826頁   〃
祈祷唱     聖373(新ナシ)    〃
使徒信条新826頁       〃
交読文11(詩篇第32篇)887頁(新改訳)〃
祈祷               司会者

賛美      新104(聖552)      一同
合唱「喜びと愛の」        聖歌隊

聖書ピリピ3:1~16     松下真由美姉
説教「キリストに捕らえられて」 矢島志朗勧士

祈祷                一同

賛美      新102(聖ナシ)      一同
献金
献金唱     聖378(新ナシ)       〃
感謝                    当番

頌栄      新63(聖383)        一同
祝祷牧師
閉会唱聖389(新ナシ)       聖歌隊
後奏                奏楽者
報告                司会者

YouTube側の設定変更のため、Webコイノニアでの閲覧ではなく
YouTubeで礼拝にご参加ください。↓↓↓

https://www.youtube.com/watch?v=j7nJln9WpCY

※パソコンで再生して下に移動すると映像が追従します

説教題:「キリストに捕らえられて」矢島志朗勧士
聖書箇所:ピリピ3:1~16

金  言

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追及しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)

ピリピ教会は、パウロが第2回目の伝道旅行(紀元50~52年頃)の途中で、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」という幻に導かれて訪れて伝道をし、ヨーロッパの最初の教会として成立しました。

パウロが獄中にいることを聞いたピリピの人たちは、エパフロデイトに贈り物を持たせて派遣しました。ローマに着いてから重病になり、回復をしたエパフロデイトをピリピに送り返すにあたって、パウロは感謝の手紙を書いて託しました。それが、ピリピ人への手紙です。感謝とともに、教会の色々な問題への対処についても助言をしています。

1~2章では、神に選ばれた、パウロが心から愛するピリピ教会の人たちのために熱い祈りをささげて、愛し合うこと、一致すること、キリスト・イエスの思いを持つこと、へりくだること、おそれおののいて救いの達成に努めることが勧められます。その模範としてテモテやエパフロデイトの働きの紹介をして、キリスト者の生き方についての勧めをしていきます。

1.気をつけること(1-11)

1節に「主にあって喜びなさい」「また同じことをいくつか書きます」「あなたがたの安全のためにもなります」とあります。そして語れられたのは「あの犬ども気をつけなさい」でした。これは最高に侮辱する言葉使いであって、ユダヤ人たちが異邦人を侮辱する時に使っていた言葉を、パウロが逆にユダヤ主義者たちに対して使ったものでした。

「肉体だけの割礼の者」(2)とは、「ただ体を切り刻んだだけの者」であって、肉体に割礼さえあれば神様に受け入れられるという立場の人たちです。肉において、外から見てどのようなものであるかが、神に受けいれられているか否かの判断基準となっています。パウロはこの考えを「あの犬ども」というほど嫌い、拒否します。神の御霊によって礼拝し、肉に頼らない者こそ割礼の者、すなわち神に受け入れられる者なのだと語ります。

この世では多くの場合、能力や外見などの要素が人の評価基準になります。そのような現実の中で私たちは生きています。4節でパウロは「ただし」と言って、自分自身が「肉においても頼れるところ」、すなわち血統、経歴、知識、熱心さにおいて誇るべき点が多々あると言います。そしてこれらのものが確かに自分にとって「益」であったとも述べます。

ところが7、8節にあるように、これらはもはやパウロにとっては「損」としか思えないものとなりました。パウロが素晴らしいと言っているのは、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」であり、かつて誇っていたものはすべて「ちりあくた」のようなものでしかなくなったのです。「ちりあくた」は「ふん土」「くず、かす」とも訳されます。

パウロはさらに具体的に、神から与えられる義を持ち(9)、キリストとその復活の力を知り(10)、死者の中からの復活に達したい(11)と語ります。この願いの中には義認、聖化、栄化という救いのステップを見ることができます。パウロの告白と勧めから、私たちが何に本当に価値を置くべきかについて、教えられたいと思います。

2.キリストに捕えられて(12-16)

パウロはこの復活を目指す中で「ただ捕らえようとして追求している」(12)と語り、そうするのは「キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」と語ります。すでに到達し得たのではなく、完全に向かって、キリストに捕らえられて導かれている。

うしろのものを忘れて、つまり過去のものには縛られないで、目標をめざして、神に与えられる賞与を得ようという一事に努めている。そのように考えることこそが「大人である人」(15)と語るのです。「大人である人」とは「成熟した人」を意味します。

完全なものを目指していても、私たち自身の力ではとうていそこにはたどり着けません。そのことにもどかしさを感じることもあります。良い歩みをしたくても、「自分は本当に何もできない者だ」と落ち込むこともあります。しかし、実はそのような思いを持つこと自体が、キリストに捕えられている証拠と言えます。もがきながら、達し得たところに従って進む中で、私たちはキリストとその復活の力を知っていくのです。

神様は私たちの歩みの中で絶妙な欠乏感、弱さ、あいまいさ、不確かさ、葛藤、やりきれなさをあえて与えてくださっていると言えます。いまだ不完全ながら完全に向かっていく歩みは、もがきも葛藤もありますが、キリストに認められていて、捕らえられている歩みであり、そう考えることこそ成熟したあり方なのです。私たちは神様の深い愛によって選ばれて救われ、今の場所に招かれ、生かされています。その恵みを味わわせていただきながら、共に歩んでいきましょう。

 

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