前奏 奏楽者
招 詞  マタイ18:4~5   司 会 者
賛  美 新19(聖478)    一   同
主の祈り 新826頁     〃
祈 祷 唱 聖373(新ナシ)    〃
使徒信条 新826頁    〃
交 読 文 45(詩篇第146篇)915頁    〃
祈 祷       司 会 者

賛  美 新505(聖ナシ)     一   同

      -幼児・児童祝福式-

聖  書  マタイ11:25~30   黛 和恵姉
説  教 「幼子のようであること」  井上義実師

祈  祷  一   同

賛  美 新317(聖493)   一   同
献  金
献 金 唱  聖378(新ナシ)       〃
感  謝         当 番

頌 栄 新63(聖383)  一 同
祝 祷     牧   師
後 奏      奏 楽 者
報 告    司会者

※パソコンで上の動画を再生して下に移動すると、右下に追従します

説 教 題:「幼子のようであること」井上義実師
聖書箇所:マタイ11:25~30

一昨日は105才を前に亡くなられた姉妹を追悼する記念会を持ちました。荻窪栄光教会の教会員であったのは、今回、主催くださった娘様から見ると御祖父様に当たります。御自宅近くに教会は幾つもありますが、荻窪栄光教会とのつながりを覚えてくださっていることに心から感謝いたしました。

今日は0才からの子どもたちを覚えて、幼児児童祝福の時を持ちます。今日もそれぞれの年代の方々が集っておられますが、神様から与えられた命をそれぞれに活かしていく尊さを思います。教会は神様に在って、一人一人の歩みが一つとされていく場所です。教会の歩みはイエス様が再び来られる日まで、太陽が照っていても、雨が降っていても、信仰が受け継がれながら、進み続けていきます。

Ⅰ.イエス様が嘆かれる

今朝の聖書箇所のマタイ11章28~30節は特別な言葉でしょう「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。…」。この聖句を抜き出して読んでいただいて、何ら差支えはありません。しかし、今朝は、なぜこの言葉がここで語られているのかを見ていきましょう。

さてマタイ11章の前半ではバプテスマのヨハネの弟子が、獄中のヨハネから遣わされて、イエス様を訪ねて来ています。このバプテスマのヨハネについてイエス様は話をされました。バプテスマのヨハネは救い主イエス様を指し示し、イスラエルの人々に神様の御心にかなう歩みを説き、神様から与えられた使命に忠実に生きました。

バプテスマのヨハネの言葉に人々は耳を傾けず、自分たちの歩みを正さず、ヨハネを退けました。イエス様はこのことを大いに嘆かれたのです「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。…カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。…」(11:20~24)。

具体的にコラジン、ベツサイダ、カペナウムと町の名を上げ叱責されました。ここまでイエス様がおっしゃるのは、余ほど目に余る状態であったからと言えます。

Ⅱ.イエス様がほめたたえる

イエス様はご自分が神様の働きを表わされたコラジン、ベツサイダ、カペナウムを責められました。イエス様は、この後に天へと目を向けられ、神様をほめたたえられました。これらの町の人々は自分たちを立派な者、賢い者、知恵ある者と自認していました。

イエス様はこれらの町の人々が見ていない、知らないでいるものを、幼子たちに現されたと言われました。ここで言われている幼子たちとは、乳幼児・学童の子どもたちを指していません。年令に関わらず、自分の小ささ、低さを知っている者という意味でイエス様はおっしゃっています。

イエス様はマタイ7章13~14節で命に至る門は狭い、その道は細いと言われました「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。

そして、それを見出す者はわずかです。」。神様につながるためには、自分を低くしなければ通れない門、自分を小さくしなければ通れない道を通っていくしかありません。私たちはお互いの年令に関わらず、自らを小さく低くすることによって、神様の御心を知り、神様の道に歩み、神様の祝福に与っていくのです。そのことをイエス様は、天を仰ぎ、心から喜んでくださいます。

Ⅲ.イエス様が呼びかけられる

イエス様はこの聖書箇所で「わたしは心が柔和でへりくだっているから」(29節)と言われました。イエス様の降誕が今年も近づきました。

待降節の時期、私はピリピ2:6~8をいつも繰り返し読み、イエス様のへりくだりを思います「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」。イエス様は天上の全ての栄光を捨てて、人間の姿となり、僕として歩まれ、十字架に死なれた御方です。

私たちがイエス様の柔和さ、へりくだりを学ぶことによって、私たちは安息、平安を得ることができます。私たちはイエス様の元に憩いを得て、力をいただく者です。次に、イエス様の元からくびきを負って歩み出す者になります。

イスラエルのくびきは2頭の牛によって引かれるものです。私のくびきと言われるイエス様は、この私の働きのために共に荷を負ってくださり、直ぐ隣で同じ歩みをしてくださる御方です。私たちがおごり高ぶりを捨て、小さい者低い者であることを認め、イエス様と共に歩む者へと導かれていきます。

私たちはどんな心を神様の前に持っているのでしょうか。おごり、高ぶりを捨て、小ささ、低さを持とうではありませんか。イエス様の元に安息をいただき、重荷を負ってくださるイエス様と共に歩み続けましょう。

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