前奏                                      奏楽者
招詞              イザヤ46:3~4      司会者
賛美              新22(聖85)                一同
主の祈り    新826頁           〃
祈祷唱     聖373(新ナシ)               〃
使徒信条    新826頁           〃
交読文     37(詩篇第119篇)909頁       〃
祈祷                                      司会者

賛美              新171(聖292)      一同

聖書              コリント第二4:7~18五領保子姉
説教           「愛なる神様の前にあって」井上義実師

祈祷                                       一同

賛美              新356(聖595)               一同
献金
献金唱     聖378(新ナシ)                〃
感謝                                      当番

頌栄              新63(聖383)一同
祝祷                                      牧師
後奏                                      奏楽者
報告                                      司会者

説 教 題:「愛なる神様の前にあって」    井上義実師
聖書箇所:コリント第二4:7~18

9月第3聖日の敬老感謝祝福礼拝を迎えました。荻窪栄光教会の冠である方々に心から感謝し、ますますの祝福のために心合わせてお祈りいたします。後15年で、私も祈られる方になります。

この所、1年の時間の過ぎ方がどんどん速く感じていますので、15年間はあっという間の話だと思います。今日は、この聖書箇所から、私たち人間がどのような存在であるかを神様から語っていただきたいと願います。

Ⅰ.私たちを見る

 この箇所で、私たち自身が「土の器」(7節)と言われています。ページ数の多い聖書の中でも、とても印象的な言葉です。同じ土でできていても陶器、磁器とは違います。陶器、磁器の方が高級品ですし国宝もあります。陶器、磁器は固く焼き締められていて壊れにくいです。

しかし、土の器には素朴な味わいがあります。土の器は手に取っても温もりがあるような気がします。何よりも土の器は弱く、もろく、すぐに欠けてしまいます。私たちの外側の肉体も、内側の心もそうでしょう。

私たちは傷つきやすく、怪我や病気がつきものです。弱いということにおいて、その究極は「死ぬべき肉体」(11節)に表わされています。アダムとエバがエデンの園で、罪を犯して以来、人は死を免れない存在になりました。

しかも、「四方八方から苦しめられます」「途方に暮れます」(8節)、「迫害されます」「倒されます」(9節)とあります。苦労の多い人生を生きる者になってしまいました。これは信仰を持っている信仰者に向かって語られています。信仰を持っていれば、何もかもうまくいくという、ご利益があり、霊験あらたかという生き方ではありません。

はっきりと苦難があることが示されています。信仰者にも人生の痛みはありますが、「窮することはありません。」「行き詰まることはありません。」(8節)、「見捨てられることはありません。」「滅びません。」(9節)との答が用意されています。私たちの人生に、困難そのものは無くなりませんが、困難を越えて行くことができるのです。

 

Ⅱ.イエス様を見る

 聖書の神様への信仰が有る、信仰が無いという違いは「この宝を土の器の中に入れています。」(7節)にあります。神様から私たちが内にいただく宝とは何でしょうか。永遠に変わらない御言、私たちの内に注がれる聖霊、私たちに最も近くおられるイエス様なのでしょうか。

この3つの尊い存在は、何れも考えられることができます。10・11節に「イエスのいのち」が私たちの内に現れることが繰り返されています。この箇所の話の流れを考えると、私たちが内に持っているのはイエス様ご自身であります。

コロサイ人への手紙が記す、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)なのです。イエス様が弱い、小さな、汚れた私の内に住まれるとは、奥義と言える大きな不思議です。

四重の福音、内住のキリストを説いたA・B・シンプソンは「聖化のより深い生活は、ただ単純に、内に在ますキリストということである。」と言いました。イエス様が私の内に住まれることは、人間の知識や経験を超えており、神様の言葉としてそのまま感謝して受け止め、そのことを神様によって体験させていただくしかありません。

聖化の生活の実践は、内に住んでくださっているキリストに生きるということに尽きるのです。イエス様が内に住んでくださっているのならば、私たちが罪や汚れに染まる、悪や自己中心に生きるという生き方はできません。

イエス様が内に住んでくださっているのならば、神様の愛、潔さ、正しさが表わされる生き方になります。イエス様が内に住んでくださっているのならば、この世のあらゆる苦難、さまざまな問題は在ったとしても、イエス様の力によって乗り越えて行くことができます。

 

Ⅲ.永遠を見る

 イエス様が私の内に住んでくださっているので「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(16節)につながっていきます。私たちの肉体は土の器ですから、やがては造られた土に還っていきます。

しかし、永遠なるイエス様を内にいただいているならば、私たちの魂は永遠につながっています。どんな苦難があったとしても、その期間は果てしなく長く感じられたとしても、限られています。私たちが御国に迎えられて、神様の栄光に入れていただき、神様と隔てなく過ごすことのできる期間は永遠なのです。

 

 私たちはこの世でもイエス様を持つことができます。やがて迎えられる御国ではさらに隔てがありません。この世の困難はあります。私たちは苦しみを持ちます。しかし、私たちの持つ希望はどれほど大きいものでしょうか。

 現在のローマ教皇フランシスコが希望についてこのように語っています(2017.9.27一般謁見演説)。

「希望は、満ち足りている人々のための徳ではありません。だからこそ、貧しい人はつねに希望を最初に与えられるのです。この意味で貧しい人は、たとえ物乞いであっても、歴史の主人公であると言えるでしょう。神はこの世に来られるために、ヨセフ、マリア、ベツレヘムの羊飼いといった貧しい人々を必要とされました。最初のクリスマスの夜、世界の人々は何事もなく横たわり、眠っていました。

… 

空虚な心をもつことは、希望への最大の障壁です。それは、だれも免れることのできない危険であるといえるでしょう。希望を妨げようとすることは、キリスト教生活における歩みの中でも起こりうるからです。」

希望は、満ち足りた人は持つことができない徳、恩恵です。貧しさ、不足、欠けから生まれてくるということです。しかし、貧しさ、不足、欠けに対して、心に空しさを持ってしまうなら希望は押しつぶされてしまいます。

私たちは希望を、神様を拠り所にして持つことが大切です。希望を自分の心の感情、周りの状況においているのなら空しさに捉えられてしまって、希望の芽は失われ、萎れてしまうでしょう。神様に向かって目を上げて、神様が備えられている永遠の栄光を目指しましょう。

オンライン席上献金


※席上献金以外は、銀行振込またはゆうちょ銀行【払込取扱票】をご利用ください。

¥

コイノニア