聖書全巻通読61巻
説 教 題:「主の再臨への備え」 井上義実師
聖書箇所:ペテロ第二3:8~15
聖書の最後は永遠に至るヨハネの黙示録で閉じられていくように、聖書の最後に近づくほど、イエス様の再臨と終末が語られるようになります。今朝はペテロの手紙第二が開かれてきました。終末に至るまで戦いは激しく、多くあります。しかし、教会の歩み、信仰者の歩みが守られていくことを共に見て行きましょう。
Ⅰ.神様の光の内を歩む
この手紙の1章1節には「使徒であるシモン・ペテロから」とあります。そして、ペテロが(3:1)「二通目となる手紙」を今、書きつつあると述べています。1章16節以下には、ペテロがイエス様に連れられて、神様の栄光の輝きを見た変貌山(マタイ17章他)について、神様の御声を聞いたことが記されています。私たちの地上の歩みに戦いはありますが、私たちは神様の栄光につながっていることを、ペテロは自分の体験から強調しています。
ペテロは先ず、私たちが神様の救いに与ることによって、この世にあってどのように変えられるのか、その恵みを述べています。救いに与った者は神様の輝きの内にあります。神様の栄光と栄誉に与っています(1:3)「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。」。私たちは、その上に、信仰・徳・知識・自制・忍耐・敬虔・兄弟愛・愛の実を結んでいく者です(1:5~8)。そして、永遠の御国に入る恵みを持っています(1:11)「このようにして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。」。これまで歩んでこられた歴代の聖徒たち、信仰にある今の私たち、これからの信仰者たちに変わることなく備えられている神様の恵みの約束です。
Ⅱ.偽りの闇から逃れる
2章1節にはイスラエルの歴史の中で現われてきた多くの偽預言者と同じように、教会の内にも偽教師が現れると記しています。この時代に、ペテロが手紙を書き送ったアジアの地域(ペテロ第一1:1)にはグノーシスを中心にした異端の教えが教会に入り込んできていました。
偽教師は(2:1)「主さえも否定し」とあります。イエス様さえ否定するのであれば、異端ではなく、異教であるとさえ言えます。彼らが持ち込むものは、放縦、貪欲、作り話(2:2~3)です。2章全体にはこの偽教師の姿が出てきます。彼らがいかに不道徳であり、滅びに向かっているのかが記されています。
ペテロは、私たちが神様に従っていくことを、創世記に出てくる悪がはびこった時代のノアの話、非常に罪が重かったソドムとゴモラの話から語ります。神様は、全てを滅ぼす大洪水の中から、ノアとその家族を救い、ソドムとゴモラを滅ぼす天から降る硫黄の火から、ロトとその家族を救け出されました。どんなに周囲の闇が深かったとしても、悪がはびこっていたとしても、神様に従うならば、救いの道、逃れの道は備えられていきます。
ペテロの時代に明らかにされた偽教師、異端の問題が、終末に向かってさらに深刻になっていきます。しかし、神様は決して見過ごされてはいません(2:9)「主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。」。ノアの家族、ロトの家族のように、私たちを滅びの中から救い出してくださいます。
Ⅲ.再臨を待ち望む
3章はイエス様の来臨と終末の完成が記されています。神様を信じようとしない人は、何時そのようなことが起こるのかと疑い、嘲りもします。主の日、神の日は、神の時であって、私たちの時ではありません。神様の時間は、(3:8)「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」とあります。時間に限りがある私たちが、永遠の内におられる神様を推しはかることはできません。私たちは、神の時に委ねる者なのです。
終末は大きな流れは理解できても、細かな点においてはよく分からない部分はあります。悪や汚れが滅ぼされて、天の万象が大音響とともに消え去り、焼けて崩れ去ることになります(3:10)「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」。そして、義の宿る新しい天と新しい地が生まれます(3:13)「しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」。夏の間、飛んでいたチョウは幼虫、サナギを経て成虫になります。サナギの間のことは実はよく分かっていません。サナギの中は、一旦、どろどろに溶けた状態から、美しい羽根を広げる成虫が精巧に形作られていきます。私たちは小さなチョウ一羽のこともよく分かっていないのです。
私たちが生きているこの世界が、やがて一切が新天新地に生まれ変わります。これは全てが無くなって、全く新しい世界が形作られる新創造です。その点では、同じ構成要素から、再び形づくられるチョウとは違いますが、神様の輝きに満ちた、完成された永遠の世界に私たちは招き入れられていきます。
神様はやがて現される神様の永遠の御国にすべての人を招いておられます。そのために、神様はすべての人が悔い改めることを願われ、神様の救いに与ることができるように忍耐されています。イエス様も全ての人の救いが成し遂げられるために、十字架の辱めと死を忍耐されました(へブル12:3)「あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。」。
私たちは神様の忍耐、イエス様の忍耐を知っている者です。私たちも忍耐をもって、神様の永遠の御国へと導かれていく者なのです(ローマ8:25)「私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。」。
主の日、神の日は私たちの救いの日となります(マラキ4:2)「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。」。その日を待ち望みつつ、今日与えられている働きを、互いに励まし合いながら果たしていきましょう。
