
出席連絡
司会:大垣義信兄 奏楽:長谷川綾子姉
前 奏 奏 楽 者
開 会 唱 聖366 聖 歌 隊
招 詞 ゼカリヤ9:9~10 司 会 者
賛 美 新114(聖ナシ) 一 同
主の祈り 新826頁 〃
祈 祷 唱 聖373(新ナシ) 〃
使徒信条 新826頁 〃
交 読 文 50(イザヤ53)919頁(新改訳) 〃
祈 祷 司 会 者
賛 美 新109(聖401) 一 同
合 唱 「主は我らの罪にないて」 聖 歌 隊
聖 書 マタイ26:36~46 黛 和恵姉
説 教 「神様に委ねていく」 井上義実師
祈 祷 一 同
― 聖 餐 式 ―
賛 美 新314(聖491) 一 同
献 金
献 金 唱 聖378 〃
感 謝 当 番
頌 栄 新63(聖383) 一 同
祝 祷 牧 師
閉 会 唱 聖389 聖 歌 隊
後 奏 奏 楽 者
報 告 司 会 者
※パソコンでの追従無し
Webコイノニアで閲覧できない場合はYouTubeでご参加ください。
https://www.youtube.com/watch?v=_ZYs65G4HnE
※LIVEの場合は再生が始まらない場合があります。始まらない場合は上記のYouTubeでご参加ください。
※パソコンで再生して下に移動すると映像が追従します
説 教 題:「神様に委ねていく」 井上義実師
聖書箇所:マタイ26:36~46
今日はイエス様が最後にエルサレムに到着された棕櫚の主日になります。エルサレムの群衆もイエス様を喜び迎えましたが、同じ群衆が5日後の金曜日にはイエス様を十字架に付けろと狂ったように叫ぶことになります。一つ一つ大事な受難週の記事の中から、イエス様のゲッセマネの園での祈りの姿を見ていきましょう。
Ⅰ.祈り続けられた歩み
イエス様の祈られている姿が最初に記されているのは、ヨルダン川で荒野のヨハネから洗礼を受けられた時のことです。イエス様は洗礼を受けられた後に祈っておられたことが出てきます(ルカ3:21)。天が開け、聖霊が鳩のような形で降り、神様の御声が響きます「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3:22他)。とても美しい光景でありました。
福音書ではイエス様が朝早くから、夜遅い時間も、日課のように祈っておられる姿を見ることができます。弟子を選ぶような特別なことがある時には徹夜で祈られました。祈るということを考えると、イエス様は「わたしと父は一つです。」(ヨハネ10:30)と言われています。イエス様は祈られなくても、神様と一つでしたから、神様に祈ると言う必要は無かったとも言えます。父なる神様をよくご存じのイエス様が、父である神様に祈り続けておられました。
神様と近いと言えない、神様の御心をどれ程知っているのかと言えば、分かっていないと言える私たちです。ですから、神様に対して開かれた心で一生懸命に、真実に祈らなくてはならないかを、イエス様の祈られた姿から教えられます。
Ⅱ.祈って従われた歩み
今日の聖書箇所は、イエス様の十字架が目の前に近づいているゲッセマネの園での祈りです。時は闇が支配しているかのような夜でした。イエス様は園に着かれて「悲しみもだえ始められた。」(37節)、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(38節)、「ひれ伏して祈られた。」(39節)とあります。イエス様は嵐を治め、死者をよみがえらせるような力と権威に満ちておられました。その御方が弱々しく、痛みの中で苦しまれています。
イエス様は「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(39節)と祈られました。イエス様は言葉をもって全てを治めることのできる力を持っておられます。罪の赦しを宣告され、悪の力を退けられました。力ある言葉を持っている御方が弱々しく、祈られています。
イエス様が「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(39節)と言われました。神様が備えられた杯が、どれ程、恐ろしく、苦いものであるかを、イエス様がよく知っておられたからです。その杯の中味は全ての人の罪と汚れがそこにあり、陰府の底まで届くものです。イエス様は「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」(42節)と言われたように、御自身以外に、誰もこの杯を飲めるものはいないことをご存知でした。私たちであれば触れることも、近づくことも出来なかったでしょう。神様が備えられた杯を飲む覚悟を決められました。
私たちも祈りを通して、神様の御心を確認し、御心に従う者となることができます。イエス様がゲッセマネの園で全身全霊で祈られたように、難しいできごとに関しては、それだけ深く、強く祈らなければならないことが分かります。
Ⅲ.祈り立ち上がる歩み
イエス様は苦しみ、格闘されるような祈りをささげられていました。イエス様の御姿とは全く対照的に、弟子たちはまどろみ、何も判断できないような状態にいました。私たちも霊的に眠りこけているならば、神様に対して何も感じない無感覚、無感動になります。神様に向かって動き出せません。イエス様は敵対者がやって来るのを悟られて、祈りの場から直ぐに立ち上がられました。
祈ることは立ち上がっていくこと、動き出すことにつながっていきます。祈りは心の平安、心の平静と関わっています。祈りは静かなものと考えやすいでしょうが、私たちを行動へと導くダイナミックなものです。イエス様は祈られていたからこそ、神様の御心を確信して、大胆に行動されたのです。
イエス様が神様の御心に従って、立ち上がって行かれました。その道は全ての人の罪を負って、全てをささげ尽くされる、イエス様以外に、誰一人歩むことのできない、高く険しい道でした。イエス様はご自身が歩んで行かれる道に「さあ、行こう。」と弟子たちに言われました。イエス様は弟子たちと一緒に祈ることを願われました。イエス様は弟子たちに共に行こうと言われました。
イエス様、御一人で全てはできたことでしょう。イエス様は誰の助けも必要とされなかったでしょうが、私と共にとおっしゃっています。この後、弟子たちは十字架に向かわれるイエス様に、付いて行くことができずに、ばらばらになってしまいます。しかし、イエス様は私たちに共に付いてくるようにと願っておられます。
「このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」
(ペテロ第一2:21~25)
今週私たちは受難週を迎えました。十字架へと向かわれるイエス様の歩みを、祈りながら、日々心に深く覚えましょう。私たちは祈りながら、イエス様の十字架の苦難の歩み、栄光の朝の復活への歩みを共に歩みながら、待ち望んでいきましょう。
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