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 30分で学ぶ新約聖書 ⑳ヤコブの手紙

聖書全巻第59巻

説 教 題:「信じて行うものとなる」  井上義実師
聖書箇所:ヤコブ2:14~26

 今朝はヤコブの手紙が開かれてきました。宗教改革者M.ルターは信仰によって義とされる信仰義認を説きました。行いによって義とされるという、当時のカトリックの主張に正面から反論したのです。義とされるという言葉を、ネットで検索するとずっとキリスト教関連のページが何ページも続きます。キリスト教以外では使われないのかと思いますが、英語では「正当である、根拠がある」という法律用語になります。聖書の元々の言葉も、法廷で使われていました。義とされるという言葉を分かりやすく、救われるという言葉に言い換えるべきだという牧師もいます。

目次

Ⅰ.信仰によって救われる


 M.ルターは、ヤコブの手紙を行いによる救いを説いていると受け止め、高く評価しませんでした。歴史的に、その部分がクローズアップされてしまいましたが、本当にそうなのでしょうか。
今朝の箇所は信仰による救いと、行いによる救いについて記しています。ヤコブの手紙は他にも大事なテーマはありますが、この箇所は中心と言っても良いでしょう。17節「同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」とあります。この箇所全体から読み取れることは、まず信仰があるということが前提にされています。次に信仰があるならば、行いが伴うということです。人が救われるということに関して、行いが先立つとは記されていません。
 信仰は聞くことから始まるとローマ10:17は語ります。同じローマ10:9には「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」とあります。私たちがまず神様の真実を聞く、神様の真実を信じる、信じて告白することで救われるのです。義とされる、救われるということはヤコブの手紙も他の聖書の箇所も、信じて救われるという救いを語っています。行いによって救われるのであるならば、行うことのできない人は救いに与れなくなります。もし、そうであれば不公平もはなはだしいことになります。私たちには信仰による義、信仰による救いという全ての人への恵みが開かれています。

Ⅱ.アブラハムから見る信仰者の歩み


 ヤコブは2:20から、イスラエルの民に信仰の父と呼ばれるアブラハムを取り上げます。23節の言葉は創世記15:6の言葉「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」の引用です。アブラハムが神様を信じて義とされた、救われたというのは、21節に出てくるイサクを祭壇に献げた時の10年以上前になります。イサクを献げるという行いによってアブラハムは救われたのではありません。それ以前に、神様の約束の言葉を信じて、義とされ、神様の救いをいただいています。
 21節の「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」には、アブラハムがイサクを献げた行いによって義とされたとあります。先に話しましたように、アブラハムはイサクを献げるずっと以前に神様を信じて義とされています。それにも関わらず、21節ではイサクを献げた時になっているのは、食い違いがあると思えます。
 この箇所が語っていることは、まず、アブラハムは神様の約束の言葉を信じて義とされ、救われているという前提があります。なお、その救いの中で、義とされた歩みの中で、イサクを献げるという大きな体験を通されました。イサクを献げたということを通して、アブラハムの義も、救いもより大きく、深いものとされていったということなのです。
 私たちの歩みも神様の義からさらなる義へと、神様の救いからさらなる救いへと、神様の信仰からさらなる信仰へと一歩ずつ、導かれていくものと言えます。

Ⅲ.イエス様が語られる信仰の歩み


 さらに、イエス様は信仰と行いをどのように語られたのでしょうか。山上の説教の中でイエス様は、マタイ7:21に「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と語られました。主よ、主よと、一見、熱心に神様を呼び求めていたとしても、神様の御国から遠い人がいます。言葉や外見ではなく、神様の御心を行うことが大切であることを語られました。では、神様の御心をどのように知り、神様の御心を行うにはどうすれば良いのでしょうか。
イエス様は、ヨハネ6:38~40の間で、神様の「みこころ」を3回語られています。その内容とは、神様によってイエス様がこの世に遣わされたこと、救いに与るものが起こされること、救いに与ったものが永遠の命を持ち、終わりの日まで守られ導かれることこそが神様の御心であると語られています。私たちは信仰による義、信仰による救いによって、永遠の命をいただき、終わりの日を待ち望むことのできる恵みに与っています。
 神様の御心とは第一に、私たちが自分の救いを全うしていくこと、救いの完成に至ることです。イエス様がこのことを語られたヨハネ6章は「いのちのパン」について語られた箇所になります。肉体の命には肉体を養うパンが必要ですが、霊的な命には魂を養うパンが必要です。肉体を養うパンはパン屋さんで求められますが、魂を養うパンはイエス様ご自身からいただかなければなりません。私たちは信仰によって義とされ、救いに与っているものとして、多くの人に永遠にいたる命のパンを届けていこうではありませんか。そこに、神様の御心があります。

 暑い日々が続き、肉体的には弱さを覚えますが、霊的には強められて、霊肉共に健やかに歩んでいきましょう。

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