説 教 題:「クリスマスにかざす陰」   中島秀一師
聖書箇所:イザヤ53:1~12


中心聖句:「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)

 クリスマスは世界中の多くの人々によって祝われています。仏教国のわが国においても、クリスマスイブには多くの人々が讃美歌を歌い、リースを飾り、ケーキを食べて過ごします。キリストなきクリスマスと言えましょう。ともすればキリスト者の中でも、クリスマスの本当の意味を理解していない人々も多いのではないでしょうか。
 「メシヤ=救世主」の来臨は、人類が堕落したその直後から神が目論まれた人類救済の預言です。主イエスはその預言の成就として来臨されました。その際に用いられたのが、「処女マリアと夫ヨセフ」でした。聖書は「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)また、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)と記しています。ここで分かることは「光と闇」とは共存できない、しかし両者は常に存在しているという事実です。わたしは今日の説教の主題を「クリスマスにかざす陰」としましたが、その意図は「喜ばしいクリスマス」を「陽」とすれば、その背後に隠れている「陰」とは何かということでした。実はこの主題は小島伊助師が元祖です。小島師の説教を苗床にしながら、私なりの「陰」を考えることにします。
 私たちの人生は常に、光と闇、陽と陰、勝利と敗北、健康と病気、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、感謝と悲哀、富裕と貧乏、平穏と不穏、成功と失敗、誕生と死等々の狭間で生き、生かされています。「光と闇」は互に反発し合いますが、「光と陰」は互に融合しています。光あるところには必ず陰があり、陰のあるところには必ず光があるのです。

Ⅰ ヨセフにかざす陰


 当時ヨセフとマリアは婚約していましたが、一緒に住んではいなかったのです。ユダヤ社会では、婚約は名目上の結婚を意味していました。ですからマリアの懐妊はヨセフにとっては身に覚えのないことでした。ヨセフの心境はマリアの裏切り、マリアの不貞、相手への嫉妬等々、これまで抱いてきたマリアへの愛情が揺らいでも可笑しくない状況でした。こうした状況がどれほど長く、深く続いたかは分かりませんが、「クリスマスにかざす陰」として彼を苦しめたことは十分に考えられます。そこで「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(マタイ1:19)のです。マリアの妊娠は法的には不貞を働いたことであり、姦淫罪で死刑に処せられる行為でした。今一つのヨセフのとるべき方法は、公にしないで離婚することでした。そこで「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(マタイ1:19)のです。陰は光の存在の証しです。光のあるところ陰は存在し、陰の存在するところに光も存在するのです。ヨセフの苦衷の陰に、神は「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」(マタイ1:20)と光を与えて、一切を解決して下さいました。

Ⅱ マリアにかざす陰


 「マリアの懐妊」に関して誰よりも一番、驚いたのは他でもなくマリア自身であったことは疑う余地はありません。ある日、御使いはマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)と挨拶しました。この御使いの言葉は、これから告知される「処女懐妊」という驚くべき神の奇跡を予知する言葉です。この言葉を聞いたマリアは「しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」(ルカ1:29)のです。口語訳は「胸騒ぎがして」と、マリアの困惑を最大限に表現しています。御使いは彼女に「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(ルカ1:31)と伝えました。マリアはユダヤ人として旧約に預言されたメシアの来臨を待望していました。待望はするものの、まさか自分の身の上に起こるとは予想だにしなかったことでしょう。御使いに告知された際、マリアは「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)と答えました。つまり「マリアにかざした陰」とは、原因と結果の整合性を根本から否定する事態、常識を遙かに超えた奇跡を意味していました。御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」と原因の所在を明確に告げました。マリアは「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と応えました。「マリアにかざした陰」は、ヨセフの人間的な思いとは全く異なり、神の為される超自然のみわざ、神の奇跡を信じるか、信じないか、つまり彼女の純粋な信仰にかかっていたものでした。これ以来、マリアの生涯はイエスの誕生から十字架の死に至るまで「クリスマスにかざす陰」の道を歩みました。それ故に主イエスの復活、昇天、栄光の凱旋を通して、マリアは栄光の光に照らされ、聖母マリアとして今に至るまで多くの人々に慕われています。

Ⅲ イエスにかざす陰

 
 聖書は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)と記しています。つまり、主イエスは「神であり、人である」お方としてこの世に存在されました。神としては光であり、人としては陰の部分、即ち苦難の生涯を送られました。
 聖書は「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」(イザヤ53:3~4)
 「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:5~8)

Ⅳ キリスト者にかざす陰


 これまで「クリスマスにかざす陰」として、ヨセフ、マリア、主イエスの場合について考えてきました。最後に「キリスト者にかざす陰」について考えてみましょう。
 主イエスは「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)、主イエスはここで私たちの人生には様々な苦難があることを指摘しておられます。冒頭において、「光と陰」の様々な構図を示しましたが、苦難を経験しない人はこの世には一人もいないのです。今もこうしてお話しをしている間にも、人知れず病気のこと、生活のこと、仕事のこと、養育のこと、老後のこと等々、悩んでおられる人は数多くおられます。そのような状態は不信仰であるとか、罪であるとか、キリスト者らしくないとか、責めたり、責められるという問題ではありません。たとえ批判したり、責めたりしても何の解決にもなりません。これらの状態は「陰」なのです。光があるところには必ず陰が存在し、陰のあるところには必ず光が存在するのです。陰が大きければ光も大きいのです。苦しみや悩みが大きくて辛いとき、光もまた陰の大きさに準じて光り輝いているのです。

 「光と闇」は共存することはできません。しかし「光と陰」は常に共存しているのです。今年のクリスマスが例年になく素晴らしい、祝福された祝祭となりますようにお祈りいたします。