聖書各巻緒論(31)・預言書9
説 教 題:「隣人を愛する者へ」    井上義実師
聖書箇所:オバデヤ12~18

 聖書66巻の各巻緒論を続けます。オバデヤ書は小預言書の4巻目に当たります。旧約聖書中、最も短い書巻として、章の区分はなく節のみで分れています。新約聖書では、ピレモン、ユダ、ヨハネの第二・第三の4つの手紙も、章はなく節のみの書巻になります。オバデヤ書は2ページと少しですので、ゆっくり目に読んでも読書時間は10分間かからないです。

Ⅰ.オバデヤについて

 オバデヤという名前は一般的な名前で、旧約聖書中13名を数えます。預言者オバデヤのことは活動の時代や、地域などは詳しく分りません。不思議なことですが1節から9節の内容は、エレミヤ書49:7~22に合致します。エレミヤがエルサレム陥落前後の預言者であったように、オバデヤもエルサレム陥落を体験したと思われます。

短いオバデヤ書の内容はエドムについてのみ語っています。イサクとリベカの間に生まれた双子は、兄がエサウ、弟がヤコブですが、エドムは双子の兄エサウの子孫になります。ヤコブは長い旅の末にカナンに帰ってきます。ヤボクの渡しでイスラエルと名前が変えられました。ヤコブはイスラエル12部族の父祖となりましたが、エサウは兄であっても傍流となってしまいます。エサウが長子の権利を軽んじたというできごとがありました(創世記25章後半参照)。また、ヤコブは老いた父イサクを欺いて祝福の祈りを受けました(創世記27章参照)。エサウは無頓着な粗暴な性格であったでしょうし、ヤコブは狡猾なずる賢い性格であったと思います。どちらも欠けた部分は大きかったと思いますが、神様の祝福を求めるということで、ヤコブは引き下がらなかったことは評価できます。神様が選民イスラエルを導かれて行く御心もヤコブを通してであったことは、ローマ9:13に記されています。

ヤコブとエサウのことで神様の取り扱いは不公平だと思われるかも知れません。しかし、神様はエサウがイスラエルの本流にならなかったとしても、エサウにはエサウの祝福を備えておられました。創世記36章にはエサウから始まるエドムの系図が記されています。エサウ以後、エドムが自分の立場で神様に従っていったならば神様はそれに相応しい祝福を備えられたことでしょう。しかし、エドムはそうでなかったのです。

エドムの地は死海の南から、紅海の入江アカバ湾までの岩の多い高地でした。現在ではヨルダンの観光地となっています世界遺産のぺトラが首都だったと言われています。アラビア半島からの交易などで繁栄した時期もありました(4節)。しかし、イスラエルと兄弟の関係であったにも関わらず、歴史を通してエドムはイスラエルに対して敵対的、攻撃的でした。 

 

Ⅱ.オバデヤ書の内容について

 エドムは、モーセに率いられた出エジプトの時、シナイ半島から約束の地カナンへの最短距離になるエドムの地を越えようとしても許しませんでした(民数20:14~21)。イスラエルがカナンの地に定住した後も、イスラエルとエドムの間に争いはいつも絶えませんでした。ダビデはエドムを力で征服しました(サムエル第二8:14)。生まれは一つでも、エドムとは他国人のような関係にありました。11節は「他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。」と記しています。エルサレムが陥落し、神殿は破壊され、略奪された時にエドムは、自分たちには関係ないことのように素知らぬ顔をしました。12節には災難の日に喜んだこと、苦難の日に大口をたたいたとあります。南王国ユダが滅亡する時に、知らぬ振りをしただけではなく、苦しみや痛みを見ながら、その不幸を喜んだという暗い心を持っていたのです。神様はイスラエルにはこの後、バビロン捕囚からの解放を備えられました。しかし、エドムはやがて滅んでいきます。17・18節にはヤコブの家からは逃れの者が出るが、エサウの家は生き残る者がいなくなるとあります。ヤコブの家も火事となり炎に焼かれますが、エサウの家は刈り株となって焼き尽くされるとあります。イスラエルもエドムも外国の侵略によって大きな痛手を受けますが、イスラエルには回復、エドムには滅びが預言されます。エドムが神様に反逆したこと、神の民に敵対したことが滅びにつながることを教えらます。

Ⅲ.オバデヤ書を越えて

 旧約聖書の記述後、新約聖書までの間にあるギリシャ支配の時代、エドムはイドマヤと呼ばれますが、やがて国は滅びます。イスラエルとエドムはその血筋でも、国境でもつながっていましたが仲良くすることはできませんでした。

イエス様が私たちに繰り返し語られたこととして、第一にすべきことは全てを尽くして主なる神様を愛すること、第二にすべきことは隣人を自分のように愛することでした(マタイ22:36~40他)。私たちは神様の愛を知り、救い主であるイエス様の十字架のあがないをいただきました。その上で、私たちは神様の愛に満たされて、自分自身と、備えられた隣人を愛する者となることができます。エドムは、父祖エサウの時代から神様を認めず、神様の愛から離れ、滅びへと向かってしまいました。イスラエルは神様の許にあり、例え、大きな失敗をして手痛い目にあったとしても回復が与えられ、再び立ち上がることができました。この違いはどれ程大きいことでしょうか。 

 私たちは神様の恵みとあわれみによって、救いに与ることができました。私たちは神様に愛されている者として、神様を愛し、全てを越えて、備えられた隣人を愛する者となりましょう。