前    奏                         奏 楽 者
招    詞  ヨハネ15:9~11 司 会 者
賛  美    新7(聖ナシ)        一   同
主の祈り    新826頁            〃
祈 祷 唱           聖373(新ナシ)         〃
使徒信条    新826頁             〃
交 読 文    34(詩篇第108篇)907頁  〃
祈    祷                         司  会  者

賛  美    新242(聖444)     一   同

聖  書  ヨシュア記24:11~15  黛和恵姉
説  教 「約束の地でどう生きるか」 栗本高仁師

祈  祷                              一   同

賛  美    新398(聖584)     一   同
献  金
献 金 唱   聖378(新ナシ)       〃
感  謝                           当   番

頌    栄          新63(聖383)            一   同
祝    祷                            牧   師
後    奏                            奏  楽 者
報    告                              司  会  者

説教題:「約束の地でどう生きるか」 栗本高仁師
聖 書 ヨシュア記24章11~15節

モーセを指導者として出エジプトをしたイスラエルの民は、後継者ヨシュアをリーダーとしてヨルダン川を渡り、約束の地に入りました。その後、その地にいた周囲の敵が取り除かれ、部族ごとに土地が割り当てられて、ついに安息が与えられました。それから多くの日が経っており、ヨシュアも年老いていました(23:1)。

ヨシュアはその晩年に、指導者たちをはじめとした全イスラエルの民を再び集めて訣別説教を語ります。そこで彼が語りたかったことは「約束の地でどう生きるか」ということです。

しかし、旧約聖書の時代の人たちのことと、今を生きる私たちとどう関係するのでしょうか。約束の地とは、私たちにとってどういう意味があるのでしょうか。彼らがエジプトの奴隷状態から解放されたのと同じように、私たちも罪の奴隷から解放されました。

そのような意味で、私たち教会も、約束の地に導き入れられた「神の民」です。そのような私たちに語られている言葉として、今日は御言葉をともに味わってまいりましょう。

主がなされた御業を思い起こす

ヨシュアは「約束の地でどう生きるべきか」の前に、大切なことを語ります。それは、イスラエルの民のこれまでの歩みについてです。彼らが、どこからこの「約束の地」に導かれて、どのようにして「安息」を得たのか、そのことが語られるのです。

しかし、ヨシュアはそのことを自分の語りとしてではなく、「主のことば」として語りはじめます(2節)。実は、そのことが非常に重要な意味を持ちます。イスラエルの父祖アブラハムから始まり、イサク、ヤコブ、モーセに至るまでのことが語られていますが、この短い節の中に(2-13節)、「わたしは〜した」という表現が何と24回も繰り返されているのです。

このところに、「あなたがたを導いてきたのは、このわたしだ」という神様の力強い宣言が聞こえてこないでしょうか。つまり、イスラエルが安息を得られたのは、「彼らの功績ではなく」(12-13節)、ひとえに「主なる神様の御業」のゆえだったのです。まず、ヨシュアは「このことを忘れてはならない」と民に語るのです。

翻って私たちはどうでしょうか。私たちを罪より救い出し、私たちを神の民としてくださったのは、紛れもなく「主」であり、全ては「主の御業」です。もしかすると、「教会に来たのは私の意志だ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、聖書は「神様は、胎内にかたち作られる前から、私たち一人ひとりをご存知で、私たちを選んでくださった」と言うのです(詩篇139:13-16)。イスラエルの民と同様、私たちも「今あるは、主の恵み」ということを、いつも思い起こすところから始めさせていただきましょう。

 

偶像を取り除き、主にのみ仕える

ヨシュアは、イスラエルの民に主の御業を思い起こさせてから、「約束の地でどう生きるべきか」を語ります。それは一言でいうならば「主に仕える」ということです。

ここまで、イスラエルの民に対して、多くの異教の国々が戦いを挑んできました(6,8,9,11節)。しかし、その都度イスラエルの神、主が守ってくださり、勝利を取ってくださいました。イスラエルに対して、真実を尽くしてくださったのです。

だからこそ、「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えよ」とヨシュアは命じるのです(14節a)。これは「主に仕える」ということの表面です。しかし、コインに表と裏の両面があるように、「主に仕える」ということの裏面も大切です。

その裏面とは、「あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕える」(14節b)ということです。「神の民」として生きていくために、この両面が必要不可欠です。つまり、私たちはは「主にのみ仕えなさい」と招かれているのです。

「偶像を取り除き、主にのみ仕える」ということは、聖書全体を通して見ても、最も重要なことの一つです。だからこそ、神様は出エジプトした民に「十戒」の最初の二つで「わたし以外にほかの神があってはならない。偶像をつくってはならない」と言われました(出エジプト20:3-5)。

ところが、その「偶像崇拝」がイスラエルにとって最も根本的な問題となってしまったのです。彼らは、他の神々を取り除くことができず、他の神々に仕え、主なる神様を裏切り続け、その結果イスラエルは悲惨な結果を招くのです。

「信仰生活の崩れがどこから始まるか。それは、礼拝の崩れからである」とある方が言われました。まさにその通りであり、だからこそ私たちは「礼拝を大切にする」のです。しかし、それは聖日礼拝だけのことではありません。

確かに、私たちは明らかな「偶像崇拝」をすることはないかもしれません。ところが、日常生活の中で、心の内に「神様にとってかわる小さな偶像」がないだろうか、と問われます。イエス様が「あなたがたは神と富とに仕えることはできません」(マタイ6:24)と言われたように、ある人にとっては財産が偶像になることもあるでしょうか。

また、ある人にとっては、自らへのプライドが偶像になることもあるでしょうか。私たちの内側にそのような神々がいないか、今一度「聖霊の光」によって心の内を照らしていただきましょう。

いのちを選びとる

ここまで、主の御業を思い起こした上で、主にのみ仕える、これが神の民としての生き方であることを見てまいりました。

しかし、私たちは「主にのみ仕えなさい」という教えを聞くと、神様が私たちの自由を縛っているのではないだろうか、と思ってしまうことがあるかもしれません。まるで神様が「あなたがたを救ったのだから、わたしの言いなりになりなさい」と言っておられるように感じてしまうことがあるのです。しかし、決してそうではありません。

神様は、ご自身のためではなく、どこまでも私たちのためを思って「わたしにのみ仕えなさい」と言っておられるのです。では、どうしてこのように言われるのでしょうか。それは、私たちに「いのちを選んでほしい」からです。他の神々に仕えることで滅んでほしくない、死んでほしくないからです(申命記30:15-20)。

そして、ヨシュアも民に対して「あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶが良い」(15節)と自由意志の中で選択を迫ります。それは、神様が私たちと本当の愛の交わりをしたいと願われるがゆえです。

無理やりでも、恐怖による支配の中でもなく、選びとれる自由の中でこそ、私たちは本当の愛を経験することはできるのです。そして今日、主は私たちにも「わたしに仕えることを選び、生きよ」と語りかけておられるのです。

民たちは「主にのみ仕えます」(16-18節)と誓いますが、残念ながら直後の士師記を見る時に、他の神々を取り除くことができないばかりか、その神々に仕えてしまいます(士師記2:11-13)。そして、イエス様の時代までその歴史を繰り返すのです。

しかし、神の憐れみは尽きません。神様は愛を注ぎ、御子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとしてお与えくださったのです。「ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10)。どこまでも不誠実な私たちですが、主はそれらを超えてどこまでも誠実です。だからこそ、軌道修正させていただきながら、ヨシュアのごとく「私と私の家は主に仕えます」と、「今日」告白させていただきましょう。

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