前奏              奏楽者
招詞              ローマ5:1~2        司会者
賛美              新138(聖ナシ)       一同
主の祈り    新826頁           〃
祈祷唱     聖373(新ナシ)           〃
使徒信条    新826頁           〃
交読文     33(詩篇第104篇)906頁    〃
祈祷                                      司会者
賛美              新202(聖609)      一同
聖書              イザヤ6:1~8        植村奈美姉
説教              「聖さは仕えるために」 井上義実師
                信仰の継承1赤山講話6
祈祷                                      一同
賛美              新380(聖719)          一同
献金
献金唱     聖378(新ナシ)            〃
感謝                                      当番
頌栄              新63(聖383)           一同
祝祷                                      牧師
後奏                                      奏楽者
報告                                      司会者

説 教 題:「聖さは仕えるために」井上義実師

聖書箇所:イザヤ6:1~8

 今年の説教のテーマの一つは続けてきました「信仰の継承」です。バックストン著作集から語ってきました。先ずは赤山講話が導かれていますので、赤山講話の第6回になります。

イザヤ書6章のイザヤが神殿の幻を見た、神様に見えたという「見神」、神様の前に立ち上がった「献身」と言われる箇所です。このイザヤ書6章はバックストン師の代表的な説教の一つと言ってよいでしょう。

Ⅰ.イザヤの過去の奉仕

 イザヤ書の冒頭、1:1からイザヤが神様に仕えた時代、神様に仕えた期間の長さが分ります。南王国ユダのウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの諸王の時代に当たります。その期間は40年以上、50年に及ぶことになります。

イザヤは若き日に主の召しを受け、ウジヤ王の時代から預言者としての活動を始めました。ウジヤ王は余り詳しく述べられていませんが、南王国ユダの最盛期の王でした(歴代第二26章参照)。ウジヤ王が導いた軍隊は強く軍事的にも優秀でしたし、農業・牧畜を奨励して経済的にも成功を収めました。

ユダの民は、ウジヤ王と共に繁栄と平和を享受しました。しかし、ユダの民は順境にあって心はゆるんでしまい、神様から離れ、堕落していたのです(1:4~6)。背信のユダに対して神様の警告をイザヤは告げています「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(1:18~20)。

たとえユダの罪が燃える火のように赤かったとしても、神様に立ち帰り、悔い改めるなら、雪のように真白にしてくださる。神様の愛とあわれみによって、赦しと回復があることを語っています。このようにイザヤは若き日から大切なメッセージを神様から託されて、神様の尊い働きを進めていました。

 

Ⅱ.イザヤの現在の状態

 6章はウジヤ王が亡くなった場面から始まります。ウジヤ王は神様に祝福され、国は反映しました。しかし、心おごり高ぶってしまい、祭司しか許されない香を焚こうとし、神様に打たれてツァラアトになりました。隔離されたまま亡くなっています(歴代第二26章参照)。

ウジヤ王は神様に背いてしまいましたが、国を最盛期に導いた王が亡くなるという外的な危機を、南王国ユダは迎えていました。この箇所から、イザヤ自身の内的な部分も知ることができます。イザヤは若き日から預言者として仕えてきました(1~5章がそれに相当します)。

しかしこの時、神様に仕える者として自分を問う内的な危機を持っていたのです。イザヤは神様に自分自身の姿をこのように答えています「唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる」(5節)。イザヤは自分の事として唇が汚れていると言っています。神様のメッセージを預かって、民に神様の言葉を伝えるのが預言者です。預言者にとって最も大切な唇が汚れているという自覚をイザヤは持っていました。これはイザヤにとって最大の危機と言うべき状態です。

国としての危機、イザヤの内側にある危機が6章の幻の背後にあります。神様は普段の時、好調の時だけではなく危機の時に語られ、その時を用いられる御方です。この時を選んで、神様は神殿に満ちたご自身の臨在、栄光、異象をイザヤに見せられたのです。

バックストン師は「その裾は神殿に満ち」(1節)を、神様が満ちておられるゆえに逃れられないと言われています。イザヤは逃げたかっただろうが、その場から逃れることはできない、神様と自分自身に向き合うことしかできなかったのです。

イザヤは神様の臨在に満ちた神殿に、天の存在であるセラフィムが飛びかけり賛美している光景を見ました。イザヤはその神聖な光景に圧倒され、自分は滅びるという絶望感を持ちました。自分は神様の前に何者でもない、汚れた滅びうる者であるという認識から神様の恵みの業は始まっていくのです。

Ⅲ.イザヤの未来に向って

 セラフィムは祭壇の燃える炭をイザヤの唇に触れさせました。この聖なる火によってイザヤの咎を取り除き、罪を赦す神様のきよめの業がなされました。イザヤは既に神の働き人とされ、尊い働きに与っていました。

そのイザヤになお、きよくされることが必要であったのです。働き人としてさらに主の御業を進めていくために、もっと大きな業が託されるために、イザヤは神様に取り扱われる必要がありました。

イザヤはこの神様の取り扱いによって、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(8節)との応答をしています。神様の聖さ、絶大さを知り、神様との直接の交わりを持つことができ、新しく立ち上がって行く確信をイザヤはいただいたのです。イザヤの真価はこれ以降の働きに表わされています。イザヤはさらに神様に用いられて、イザヤ書は66章へと書き綴られて行きます。

今、私たちを聖める炎は、聖霊の炎なのです。この聖霊の炎は私たちの内の汚れを焼き尽くして聖めるものです。聖霊は人を愛する愛の力、人を導く宣教の力を与えてくださいます。

神様は今も同じく私たちに臨まれています。私たちをさらに高みへと引き上げようとされています。

「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」(8節)の主の呼びかけが聞こえておられるでしょうか。応えうる私たちでしょうか。 

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