説 教 題:「十字架を負って従う」     中島秀一師
聖書箇所:マルコ15:16~24


 本日は受難日礼拝です。共に主のご受難に思いを馳せたいと思います。私的なことで恐縮ですが、本日は私の67回目の受洗記念日です。受洗日は1955年4月10日です。この日が聖日である確率は67年間に8回、約8年に一回の割合です。本日の主題は「十字架を負って従う」です。

Ⅰ 十字架前夜(木曜日)


1 過越の祭=最後の晩餐
 当日、イエスは弟子たちを集めて過越の祭りを行われました。(参照・マタイ26、マルコ14、ルカ22、ヨハネ13)この祭はイスラエル民族がエジプトから解放されたことに由来しています。その内容は、「小羊をほふり、その血を家の柱とかもいに塗る。その血は印となり、神はその血を見て、裁きは過ぎ越す」というものでした。(参照・出エジプト12:1~13)この過越の祭では小羊の肉と血が用いられましたが、最後の晩餐においては、イエスが砕かれる体と流される血の象徴としてパンとぶどう酒が用いられました。
 イエスの使命は、万民の救いのために贖いの死を遂げることでした。その使命を果たす時がこの時であることをイエスは直感していました。聖書は「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。」(ヨハネ13:1)と記しています。
 最後の晩餐の冒頭に聖書は「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに『主よ、まさか私ではないでしょう』と言い始めた。」(マタイ26:21~22)と記しています。
しかし、実際はユダだけでなくペテロをはじめ他の弟子たちもイエスを裏切りました。それは十字架を負うことを拒んだことに他なりません。
 
2 ゲッセマネの園
 その後、イエスはペテロとヤコブとヨハネを連れてゲッセマネの園に祈るために行かれました。ゲッセマネとは「油絞り」の意味です。その際イエスは彼らに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」(マタイ26:38)と要請されました。
 一度目に「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)と祈られました。この「杯」は、旧約の預言者が預言した「神の憤りの杯」(イザヤ51:17)を意味していました。
罪なき神の子であるイエスにとっては、身に覚えのないことでしたので、とても承服することができないことでした。
 二度目に「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」(マタイ26:42)と祈られました。これは全き服従の祈りでした。ルカは「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(ルカ22:44)と記しています。
 三度目には、二度目と同じ言葉で祈られました。その間、イエスは三度にわたって弟子たちに祈りを要請しますが、弟子たちは三度とも応えることができなかったのです。この場合のイエスの要請は、祈りの要請であり、それは弟子たちにとって祈りの十字架を意味するものであり、それに応えることができなかったのは、十字架を負うことを拒んだことに他なりません。
 
3 イエスの捕縛と六裁判
イエスが三度目に祈られた後、ユダを先頭にして祭司長、律法学者、長老たちに扇動された暴徒が押し寄せてきました。ひと騒動があった後、イエスは捕縛されました。この大事な時に「弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。」(マタイ26:56)のです。この後、イエスは元大祭司で現大祭司カヤパの舅であるアンナスの前で尋問され、続いてカヤパの前で尋問され、さらに夜明けになって裁判を合法化するために尋問されます。以上は三宗教裁判と呼ばれています。ペテロはカヤパの庭において三度イエスを否定しました。三度目に鶏が鳴きました。ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた」(マタイ26:75)のです。
 裁判の結果について聖書は次のように記しています。「イエスは『あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。』すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。『この男は神を冒瀆した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう思うか。』すると彼らは『彼は死に値する』と答えた。」(マタイ26:64~66)イエスの罪状はこともあろうに「涜神罪」だったのです。
 夜が明けた頃、イエスの身柄は総督ピラトに移ります。途中、ヘロデ王が裁判に加わり、そして再びピラトに移ります。ピラトの判決は次のようでした。「私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」(ルカ23:14~16) 以上は三政治裁判と呼ばれています。
 ピラトには二つの誤算がありました。一つは民衆が裁判の結果を受け入れること。二つは、祭りごとに一人の囚人をゆるしてやること。民衆はバラバを選んだのです。その結果、ピラトは「語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。『この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。』」と責任を放棄しました。民衆も「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」と応じました。
 総督官邸において、「緋色のマントを着せられ、茨で冠をかぶせられ頭に置かれ」たイエスは十字架を担って刑場に向かって歩み出されました。

Ⅱ 十字架への道


1 ヴィア・ドロローサ=苦難の道
 イエスが十字架を担いで歩まれた道は「ヴィア・ドロローサ=苦難の道」と呼ばれています。ピラトの官邸からゴルゴダの丘まで約1㎞の道程です。
 ドロローサには14カ所の留(ステーション)があります。1留から9留までは旧市街、10留から14留までは聖墳墓教会にあります。
 
2 無理に負わされた十字架
 聖書は「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。」(15:21)と記しています。
 5留はシモンに強制的にイエスの十字架を負わせたところの留です。シモンは十字架を担ぎながら、前を歩かれるイエス様の足跡を見つめ乍ら、遅れないように、ただ黙々と歩いたことでしょう。
 
3 家族の救い
 ローマ書16章13節に「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。」と記されています。ルフォスはシモンの子、その母はシモンの妻であるとも考えられます。無理に負わされた十字架が、家族の救いにつながったとは、何という神の素晴らしいみわざでありましょうか。

Ⅲ 十字架を負う


1 受身の信仰
 受身の信仰は幾つもありますが、今日は一つだけ紹介しておきます。
「イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」(イザヤ46:3~4) 
 
2 自分の十字架を負う
 イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(ルカ9:23)と言われました。長い人生には人それぞれに担うべき自分の十字架(重荷)があります。
 
3 互いに重荷を負い合う
 聖書は「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)と教えています。自分のことだけで精一杯なのに他人ことなど考える余裕はないと思うかも知れません。私たちが試練に会った際に一番大切なことは孤立しないで、同じような経験をした人とつながることです。
 
4 重荷を負われる主
 イエスは「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:29~30)と言われました。この譬えはイエスが私たちの重荷を負って下さる方であることを示しています。
 聖書は「ほむべきかな 主。日々 私たちの重荷を担われる方。この神こそ私たちの救い。」(詩篇68:19)と教えています。
 
5 十字架を負って従う
 イエスは「日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と命じておられます。イエスは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28 )と約束しておられます。聖書の神は「重荷を担われる方」です。両者は決して矛盾しているのではなく、一体化しているのです。「日々自分の十字架を負って、わたし(私たちの重荷を担われる方)に従って来なさい。」平易に言いますと、自分の十字架(重荷)だけをイエスに任せするのではなく、十字架(重荷)を背負った自分そのものをイエスにお任せしてしまうことなのです。
 この真理を表す究極の聖句は「わたしにとどまりなさい。。わたしもあなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15:4)「我に居れ、さらば我なんぢらに居らん。」(文語)相互内住の恵みです。
  相互内住の恵みに与ったとしても、私たちの十字架(重荷)が全くなくなる訳ではありません。痛みや苦しみが残るでしょう。そうした中でも耐えられないような試練に会うことはありません。「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。」(ローマ5:4)のです。
 この希望は御国への希望であり、栄化の恵みです。この希望を抱いて、最後まで十字架を負ってキリストに従う者とさせていただきましょう。