聖書各巻緒論(19)
説 教 題:「救い主イエス様をいただく」    井上義実師
聖書箇所:詩篇2:1~12

 昨年の4月から聖書が新しくなりました。皆様の聖書通読の助けとなればと考えて聖書66巻の緒論を語ってきました。11月からはクリスマスなど教会暦に従った説教、年末年始の説教を語りました。聖書各巻の緒論は10月31日のヨブ記以来となります。今朝は詩篇を取り上げましょう。

Ⅰ.詩篇と礼拝について

 詩篇は全150篇・5巻に区分されますが、とても大切です。ユダヤ人は旧約聖書をタナハと呼んでいますという話を昨年の最初にしました。旧約聖書を3区分して律法の書トーラー、預言書ネイビーム、諸書ケトビームの頭文字をとってタナハと呼びます。所が、イエス様は「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」(ルカ24:44)と言われました。ユダヤ人の言う諸書ケトビームは沢山ありますが、諸書をまとめて、あるいは代表して詩篇と呼ばれています。詩篇には信仰者の神様への賛美、感謝、願い、求め、信仰生活の赤裸々な叫びが記されています。それらはダビデを初め数千年前に記されていますが、現代の信仰者の心と思いにも直接つながっています。
Cf.日本の歌である短歌、俳句を外国語、外国の文化で表現するのは難しいことです。英語でHaikuと訳されて紹介され、評価もされ英語で作られもしています。日本語は、余白、余韻にさまざまな感情や情景が響いていく文化だと思います。… 同じように詩篇はユダヤ人のヘブル語とその文化による詩歌です。ヘブル語原文には韻を踏む箇所、独特の表現法(対句法・並行法が有名)などが表現されていますので、翻訳で表すのは難しい部分もあります。
詩篇は歴史の中で礼拝と深い関わりがあります。ソロモン以降の神殿礼拝でも、バビロン捕囚後のシナゴグでの礼拝でも用いられました。新約聖書の使徒の時代、初代教会の時代にも引き継がれていきます。ローマを中心にした西方教会(カトリック教会)、コンスタンチノーブルを中心にした東方教会(ギリシャ正教会)に分れても用いられます。宗教改革に至って、M.ルター、J.カルヴァンも詩篇を大切にし、プロテスタント各派も礼拝でそれぞれの用い方をしていきます。詩篇は旧約時代からの公同の礼拝のみならず、ユダヤ教の家庭礼拝でも、時代を超えた信仰者の日々の個人礼拝に恵みを与えてきたものです。

Ⅱ.王なるキリストを示す

 150篇ある詩篇の内から今朝は第2篇が開かれてきました。以前はよく読まれました「聖書66巻のキリスト」(A.M.ホッジキン著)のタイトル通りで、詩篇においても中心にあるのはイエス様と言えます。先にお話しましたルカ24:44で、イエス様も「… 詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」と言われました。イエス様について記している詩篇の最初が、第2篇となります。本編は「王の即位の詩篇」と呼ばれています。「油注がれた者」(2節)は原語でメシア、英語でメサイアになります。旧約の時代で油注がれるという儀式は王、祭司、預言者の任職の際に用いられました。この詩篇の中心は、この世の王とは違います。神様からの任命を受けた救い主が表されています。4~6節には、どの時代でも、現代であっても、世の王がどれ程自分の力が偉大であるかを誇ろうとしても、全てを超えた天上の神様から見るならば、失笑されてしまうものに過ぎないということです。神様の怒りが及べば、この世の力は何の力も無く吹き飛んでしまいます。聖なる山シオンの王イエス様(6節)は、新しい都エルサレムの永遠の王として即位されます。ヨハネの黙示録の結論、神様の救いの完成につながっています。7~9節にもイエス様の権威、栄誉が記されています。「あなたはわたしの子。わたしが今日 あなたを生んだ。」(7節)は使徒13:33、へブル1:5・5:5に引用されています。この言葉によって、イエス様は神様と一つであること、力も権威も等しいことが旧約、新約聖書を通して強調されているのです。

Ⅲ.避け所である神様

 最後に12節「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。」とあります。詩篇で「避ける」という言葉は繰り返し記されています。詩篇46:1が有名でしょう。「神は われらの避け所 また力。」(新聖歌280番「神はわがやぐら」M.ルター、引照箇所)とあります。他にも、「御翼の陰に身を避けます。」詩篇36:7・57:1・61:4のように、めんどりがその翼に下にひなをかくまうような表現も出てきます。神様は私たちに時に戦いなさいと命じられることもあります。神様は、時に私たちをかくまわれることもあります。前に出て戦うことだけではなく、退いて神様の翼の陰に休むことも必要です。今でも続くユダヤ人の祭の中で、過越しの祭はモーセの時代エジプトでの虐殺を免れたことから、プリムの祭はエステルの時代ペルシャでの虐殺を免れたことから祭事として続けられています。イスラエルの歴史、聖書の歴史、教会の歴史は、神様によって守られ支えられていく歴史でした。救いは一人一人の内になされます。神様を信じて一つとされた教会や団体の群れの内にもなされていくのです。天から降られ、天上の権威を持たれた王であるイエス様は私たちのために戦ってくださいます。イエス様は御体をもって私たちをかくまって、守ってくださるのです。

 神様は私たちを守られ、助けられ、救われる御方であることは詩篇を通じ、聖書全体を通じて表されています。この大いなる御方にどんな時でも信頼し続けましょう。