聖書各巻緒論(18)
説 教 題:「全能の神様にひれ伏す」      井上義実師
聖書箇所:ヨブ記42:1~10

 ヨブ記は聖書の中でも難解な書巻と言われることが多いでしょう。手に取りづらいという思いをされている方もあるかも知れません。人生の苦しみについて、ヨブ自身から語られています。私たちの世代の関西聖書神学校の神学生は、体験的ヨブ記と言われた向後昇太郎師のヨブ記講解を学んでいます。向後師は「開拓伝道」と「ヨブ記」の2つの授業でしたが、教えていただいたことに感謝しています。先月、9月には現校長の鎌野直人師が関東教区研修会・神学校アウトリーチで語られました。30年を経て時代は変わりましたが、塩屋と関わりながら全く異なるアプローチのヨブ記を聞くのは感慨深いものがありました。

Ⅰ.基本的なことがら

 著者:ヨブの姿は族長の姿を持っています。ヨブは真の神様を知り、神様に従う信仰者でした。ヨブはアブラハムと比肩されても良い人物でしょう。言うまでもなくヨブは実在の人物、聖書の記載は真実です。しかし、ヨブ記を誰が記したのかという著者については特定が難しいです。

 執筆年代:ヨブの時代を族長時代とし、この時代に記されているならばモーセが創世記を記すよりも以前の時代ということになります。聖書中、最古の書物であると言われる所以もここにあります。著者と同じように、年代の特定は難しいです。

 大区分:ヨブ記の構成は分りやすいです。それぞれに大切な意味合いがあります。

緒言(1・2章、散文)、対話・対論(3-42:6、詩)、結論(42:7-17、散文)。

緒言と結論は普通の文章ですので読んでいただいてそのままの意味にとっていただけます。

 ヨブとヨブの友人・エリファズ、ビルダテ、ツォファル(2回)との3回の対論、その後のエリフの独論、最後に神様が臨在を表わされます。この部分が詩歌として記されていますので、ヨブ記は詩書に分類されています。

Ⅱ.全体のメッセージ:

 ヨブは「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」(1:1)とあります。家庭は祝され、周囲の尊敬を受けていました。神様の前に落ち度なく、正しく歩むヨブをサタン(原意は訴える者)が神様に訴え出ました。サタンはヨブの神様への忠信は、神様の守りと祝福があったからこその話しで、それが失われれば神様を呪う者となるでしょうと、よこしまな考えを持ちました。神様の許しを得て、サタンはヨブの財産のみか、あろうことか息子、娘たちも取り去ったのです。ヨブはこの大きな悲劇の中で、「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1:21)と答えました。ヨブは、神様に恨みつらみを持たなかったのです。

 神様の前に再びサタンはやって来ました。神様はヨブを誉められましたが、サタンは再びヨブを試みる許可を得ます。今度は自分の身に悪しき事が臨んだらどうなるのかという試みでした。ヨブの全身に悪性の腫物を生じさせたのです。妻も厳しい言葉をヨブに返します。ヨブの痛みを聞いて、3人の友人がヨブを慰めるために来訪しました。彼らはヨブの状態を見て、慰めの言葉さえ見つからないまま7日間座り続けていました。しかし、ここからヨブと友人の対論が始まります。

 友人たちが言っていることは、神様は正しい者を祝す御方であり、悪しき者を罰せられる御方であるから、ヨブの苦しみは罪の結果に違いないというものでした。友人たちの論法は激しさを増していきます。ヨブも自分の正しさを主張し続けたのです。この討論は身体的な苦痛ではなく、自分が受け入れてもらえない、否定され続けられるという精神的な苦痛をヨブにもたらしたことでしょう。

 彼らの激しい討論に、突然に4人目のエリフが登場し、主張し始めます(32:2~3)。エリフはヨブが自分を義とし、3人の友はヨブを不義としていますが、その論拠を示せないことに怒っています。苦しみは罪の故にあるのではなく、神様の戒めであると言っています。このエリフの独論の後に、ついに神様の使信が告げられていきます(38:1~42:6)。

Ⅲ.聖書箇所のメッセージ:ヨブ記42:10~17

 ヨブは神様の前に、自分は完全な者であると自認していました。ヨブは神様の前で正々堂々論じあえるとさえ考えていました。しかし、神様が口を開かれ語られ始めますと、神様が全く次元を超えた偉大な御方であることを理解したのです。神様の言葉と臨在を通して、ヨブは自分自身が何者でもないことに気づき、全く打ち砕かれました。神様はヨブをただされましたが、3人の友はその言葉から罪ありとされました。ヨブは彼らのために仲保者となり、神様の前に執り成しの祈りをささげました。

 ヨブの後半生は前半生よりも満ち足りたものとなりましたが、終わり良ければ全て良しという話ではないでしょう。ヨブが、最終章に至るまでの苦悶は言語を絶するものがあります。ヨブは神様から訓練を受けた、造り変えられた、ねりきよめられたということは言えるでしょう。ヨブでなければ耐えられないような大きな試練を神様はヨブに授けられたとも言えます(へブル12:5~9「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」(6節))。

竹田俊造師はヨブの鍛錬の過程をこう語られています。

仲保を求めた。「私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。」(9:33)

私の証人を望み見た。「今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。」(16:19)

確信を得て叫んだ。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。」(19:25)

最終的に至った思いは、「しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。神はご自分が欲するところを行われる。 神は、私について定めたことを成し遂げられる。神にはそのような多くの定めがあるからだ。」(23:13~14)

実に神はわれわれの目を開いて見せ、耳を開いて聞かせてくださる。 開かれた目、開かれた耳、これによって神を拝し、神にお会いする。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(マタイ5:8)。それゆえ聖潔は生ける神に仕えさせるものである。

 

アウグスチヌスは苦しみの意味について、「悪も無く苦しみも無いことよりも、悪から善を生み出すことを神はより勝ったことと判断された。」と言っています。私たちは造られた者として、神様の前にひれ伏し、謙虚に歩みましょう。私たちのために執り成す、仲保者なる御方を持っているのですから、やがて公正な審判(判断・評価)を下される神様の前に出る者となりましょう。