聖書各巻緒論(8)
説 教 題:「神様に従う者への祝福」      井上義実師
聖書箇所:ルツ記2:1~13

 ルツ記は士師記とサムエル記の間に置かれています。士師記の時代にあった出来事を記しています。400年間に及ぶ士師記の時代は、ルツ記の記述がなければ、全くの暗闇のような思いがする時代背景です。私たちはルツ記に一筋の光を見ることができるのは幸いなことです。

 この物語の主人公はルツという名の一人の女性です。彼女はイスラエルの隣国モアブの出身でした。イスラエルの民はモアブ人、アンモン人をカナンの諸部族の中で最も嫌っていました。創世記19章後半が述べているようにロトの娘たちから生まれた民族だからです。

 神様はイスラエルから嫌われていたモアブの一人の女性の信仰から、大きな恵みを表わされていきました。人は外の姿形を見、神様は内なる心や魂を見られています。人が持ちやすい差別や偏見、因習などは神様には関わりがありません。

Ⅰ.基本的なことがら


著者:士師記とルツ記はサムエルという考え方はありすっきりしますが、明白ではありません。特定するには判断材料が余りに少ないのです。
●執筆年代:さばきつかさ(士師)が治めていた時代(1:1)の出来事です。ボアズとルツから数えて4代目にダビデが生まれていますので、B.C1150年頃と考えられるでしょう。
●大区分:4章の短い書巻であり、話に起承転結はありますが、読み解く上で特に区分は必要ないと思えます。

Ⅱ.基本的なメッセージ:「ルツの信仰」


 イスラエルに飢饉が起こりました。ユダのベツレヘムに住んでいたエリメレク・ナオミ夫妻は食物のあるモアブに下っていきます。エリメレクの一家はモアブで暮し、二人の息子にはモアブ人の妻をめとりました。先ず、飢饉があったからと言って異邦の地に住むことは、神様が喜ばれないということは、飢饉の時にエジプトに下ったアブラハム、それ以降の記事にも明らかです。イスラエルの民に、イスラエル以外の異邦の民と結婚することを神様は禁じておられました。エリメレク一家は、何れにも反していたのです。

 やがて、この家族の内でナオミは夫に先立たれ、まだ若い二人の息子も亡くなってしまいました。ナオミは傷ついた心でベツレヘムに帰ろうとします。二人の嫁には、モアブで再婚するように郷里のモアブの地に残そうとしました。弟嫁のオルパはモアブに残りましたが、兄嫁のルツはナオミに付いていきます。ルツの言葉は「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」(1:16)です。エリメレク・ナオミ夫妻の行動は信仰深いとは言い難いものですが、ナオミの信仰はモアブ出身の異邦の嫁に感化を与えるものであったのです。

 ナオミは持っていた多くのものを失いましたが、信仰を失わなかったということでしょう。これ以降の物語の中で、信仰こそ、命あるもの、価値あるものが生み出されていく源泉となっていくことを見ることができます。

Ⅲ.聖書箇所のメッセージ:「ルツの献身」2:1~13


 ベツレヘムに帰ってきても、何も生活の当てを持たないナオミとルツです。おおよそ3千年前の社会で女性が独りで生きていくことは大変なことであったはずです。聖書は社会規範として寡婦、孤児、寄留者を特に顧みなさいと繰り返し命じています。大麦の刈入れの季節であったのでルツは落穂ひろいに出ていきます。何も知らないでルツが麦の穂を拾ったのは、エリメレクの親戚ボアズの畑でした。ボアズはルツが何の寄る辺もない、知らない土地に来て一生懸命働く姿を見ていました。ルツの姿を人が見る以上に、神様は全てをご存知であったのです。そこに神様は祝福を注いでくださいました。ボアズとルツは結婚し、絶えようとしていたエリメレクの家は再興されます。何よりもボアズとルツから数えて4代目にはダビデが生まれ、その系図の先にはイエス様の名前が記されています(マタイ1:16)。これから約1千年後にイエス様はベツレヘムの町で地上にお生まれになるのです。

 
 ルツが自分の境遇を嘆くことなく落穂ひろいをしました。聖書を読んでいくならば、アベルは一生懸命羊の世話をしていたでしょう。ノアは周囲の人に馬鹿にされながらも巨大な箱舟を作り続けました。ペテロヤコブヨハネはガリラヤ湖で漁師として、魚を獲っている時に、イエス様から召し出されました。私たちはどんなに小さく見える働きであったとしても、忠実に使命を果たす時に、神様は祝福を備え、導きを与えて下さいます。ルツは1本の麦の落穂を拾いながら異邦の地で神様の恵みに与っていきました。

信仰は全てを越えて祝福をもたらすものです。私たちの目に見える状況が良い時も悪い時も、変わることなく忠実に神様に従う者を神様はご覧下さっています。そこに祝福を表して下さるのです。