説 教 題:「神様の約束の成就」聖書各巻緒論(6)  井上義実師
聖書箇所:ヨシュア記21:43~45

聖書各巻の緒論は第六回となりました。最初の区分に当たるトーラー・律法の書・モーセ五書が終わりました。ユダヤ人の考え方では、最初の五巻がトーラー・律法の書で、六巻目のヨシュア記からはネビーム・預言書になります。ユダヤ人の伝承では、旧約聖書の内容は同じですが、配列がかなり違っています(預言書には前の預言書、後の預言書の区分があります)。私たちの旧約聖書の配列は70人訳聖書(B.C1世紀頃には成立しました。ユダヤ以外に居住するディアスポラ(離散の)ユダヤ人が増え、へブル語が使えなくなっていました。当時の地中海世界の共通語であるギリシャ語によるギリシャ語訳旧約聖書のことです)から、ラテン系の写本に引き継がれてきています。

1.基本的なことがら

●著者:モーセに続いてのヨシュアの時代、ヨシュアの事績について記されています。著者はヨシュアとは断定できません。ヨシュアの読み方、呼び名は4通り出てきます。「ヌンの子ホセア」(民数記13:8他)ともあります。名前の意味は「主・ヤハウエは救い」、この言葉を新約聖書のギリシャ語に置き換えると、イエスゥスになります。イエスを旧約聖書のヘブル語に置き換えるとヨシュアになります。

●執筆年代:発掘された考古学的な研究からもA.D13世紀頃、カナンの諸都市は外部からの攻撃を受けて滅ぼされた事実が明らかになっています。また、この書巻はカナン征服から間もなく執筆されています。

●大区分:
・1~12章  カナンの占領 ヨルダン渡河 エリコ陥落 アイでの失敗 その後の戦役
・13~24章 領土分割(ヨルダン東岸を含む) 逃れの町(6か所) レビ人の町(48か所) ヨシュアの晩年

2.基本的なメッセージ:「信仰と不信仰、従順と不従順」

 神様は、出エジプトの時と同じように、カナンの地を征服するために、大いなる業をなされました。出エジプトの民の次の世代に当たるイスラエルの民は、ヨルダン渡河、エリコの征服から、神様が働かれ、戦われるならば人知を超えた神様の業を見ることを知りました。アイ攻略の失敗(7章)、ギブオン人との盟約(9章)は、イスラエルの民が神様から目を離し、人間的な判断に頼って失敗しています。神様が語られた言葉への信仰を持ち、心に勇気をもって(冒頭のヨシュアへの強く雄々しくあれという命令、度々出てきます、恐れるなという神様の言葉)、神様の命に従順に従うことによって、勝利と祝福を得ていくのです。信仰を求めないで、周囲の状況に怖気づき、神様に不従順であるなら敗北し、苦い経験となっていきます。この書巻には、余りに対照的な結果が記されています。

3.基本的なメッセージ:「滅ぼし尽くすことの意味」21:43~45

 今朝読んでいただいた聖書箇所では、カナン占領は、神様の完全な勝利、約束の成就と語られています。神様はイスラエルの民への約束を果たされましたが、イスラエルの民はどうだったのでしょうか。次の書巻、士師記1:1~3:6には、カナンを占領し尽くしていないことが出てきます。この後も戦闘が続きます。追い払われなかったカナン人がイスラエルの民と共存しています。イスラエルの民が土着の偶像に仕えたことが出てきます。イスラエルの民の従順は不徹底であったのです。そのことを頭に置きながら、ヨシュア記を中心に「聖絶」(へーレム、この言葉は新改訳翻訳委員会の造語です)が出てくることを考えてみましょう。愛である神様が、何と残虐なことを命じられているのかと誰もが思う言葉ではないでしょうか。しかし、まずカナン人は、悪く汚れた偶像宗教を持っていました。バアルとアシタロテに代表されます。人身御供を求めています。不道徳な行いが日常的に行われていました。イスラエルの民にたとえ少量であったとしても害を与え、完全に取り除かなければならなかったのです。イスラエルの民がこれらを滅ぼし尽くさなかった、士師記以降の結果は、残念です。偶像礼拝と真の神様への不信仰は一体のものです。真の神様への不信仰は、自分を中心とするゆがんだ自己愛を大きくしていきます。イスラエルの民はますます、悪から悪、汚れから汚れへと陥ってしまっていきます。神様は、イスラエルの民の不徹底を予見された上で、聖絶を強く言われたとも言えるのではないでしょうか。カナンの地での生活の最初から正しい道を歩むようにと神様は強く願われたはずです。この後に、自らを顧みて悔い改め、軌道修正していくことはずっと困難なことだったでしょう。イスラエルの民に対して、行く末を案じられて、信仰的な命令として語られた言葉なのです。

ヨシュア記が時を越えて、私たちに語っているのは何よりも神様への信仰と従順です。ごくわずかなパン種が生地全体をふくらまします(コリント第一5:6~8)。目に見える悪は取り除き、この世とは歩調を合わさずに、自らを神に喜ばれるささげ物としていくことを神様は願っておられます(ローマ12:1)。荒野の40年間は厳しいものではあったでしょうが、外界とは隔絶されてイスラエルの民は霊的に守られていたのです。カナンの地に入ることは祝福でしたが、周囲の世との戦いが始まっていったのです。イスラエルの民は緒戦から勝利しきれなかったのです。このことが禍根を残していきます。私たちも改めて、世にあって私たちのあるべき姿を受け止めましょう。

2021.6.27