第1回 「主を愛し、主に仕える」 申命記6:1~15

 伝道について共に受け止めてきました。何よりも私たちが神様からの救いの恵みに与っていることがその最初にあります。私たちは神様への感謝を、喜びをもって証しする者でありましょう。また同時に、神様への感謝を神様に仕えることによって表わす者でもあります。

Ⅰ.第一の戒め

 この聖書箇所は、イエス様が律法の中で最も大切な戒めとして答えられた「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」(マタイ22:37他)の出典の箇所です。イエス様の答えはユダヤ人であるならば皆、納得せざるを得ない箇所でもあるのです。イスラエルの家庭では朝夕の礼拝が神様にささげられますが、申命記6:4~9、11:13~21、民数記15:37~41が朗読されます。ユダヤ人であれば子ども時代から毎日2回聞き、暗記している箇所です。この家庭教育が、イスラエルの宗教教育の根幹をなしています。イスラエルの歴史は最も短く言えば、イエス様の昇天後、2回ローマへの反乱が起こりました(第一次ユダヤ戦争、第二次ユダヤ戦争)。第一次ユダヤ戦争ではA.D.70年にエルサレムは陥落し、神殿は炎上しています。第二次ユダヤ戦争であるバル・コクバによる反乱ではA.D.135年にエルサレムは壊滅、ユダヤ人は故国を失い散らされることになります。それから1800年、1948年5月のイスラエル建国まで国を失って流浪しながら、民族性を保ち続けたのはこの家庭教育が基礎にあったからです。神様は選ばれた民に対して責任を持ち続けられたことが解ります。神様の特別な不思議な計らいです。 

Ⅱ.刻まれた戒め

 ユダヤ人が大切にした戒めが実際にどのように伝えられ、子孫に覚えられたのでしょうか。心に留め(6節)、子どもたちに教え、語る(7節)とあります。言葉として伝えられ、記憶され、心に刻まれていきました。また、手につけてしるしとする(8節)。これは左腕に革ひもでこの言葉を含めた4つの聖書箇所を納めた小箱(腕の経札、テフィリン)を結びつけるのです。目の間に置いて覚えとする(8節)とは、前頭部に先の内容とほぼ同じ小箱(頭の経札)を着けます。朝の礼拝で13才以上の男子がこれらを着けました。身に着けるという象徴的な行為で体に帯びると言うことを表しています。体験的な記憶になるのです。家の入口の柱、門に書き記す(9節、メズザー)ものでもあります。家に出入りする時に、目に入ることによって視覚的な記憶になっていきます。朝夕の礼拝に読まれる民数記15:37~41は衣服のすその4すみにふさ(シッシト)を付けます。これも視覚的な記憶となります。大切な戒めが、5つの別の形で繰り返されます。神様の真理を自分のものとしていくのです。

Ⅲ.戒めの結実

 律法、戒めは単に人を縛りつける規則、規範ではありません。人間は善と悪の区別も十分できません。解っていながら、善を行い悪を斥けることもままならない者です。人を傷つけ、神様を悲しませる者なのです。しかしながら、神様は聖なる、真実な御方です。戒めには神様の道徳的な基準が示されています。この神様の基準を守ることによって与えられるものは神様の大いなる祝福です。長命と子孫の繁栄(1-3節)、また物質的な祝福です(10-11節、大きな美しい町に住む、家には良い物が満ち、井戸、ぶどう畑、オリブ畑を得る)。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの族長の時代からも、旧約聖書に描かれる祝福は解りやすく明快です。目に見える、物質的な祝福は旧約聖書で終わったのでしょうか。旧約聖書から新約聖書において、人類の初めから今日に至るまで、神様の戒めを守る者、従う者への祝福は変わることはありません。この祝福が明らかであるのに、神様に従うことは難しかったのです。律法を守っていたとしても形式主義になって、形だけであったのは律法学者、パリサイ人で明らかです。生来の人間の性質では律法を守り通すことはできません。旧約の時代では人の力で律法を守らなければなりませんでしたが、今に至る新約の時代ではイエス様の導きと聖霊の守りがあるのです。福音と律法との関係を記していますガラテヤ人への手紙を参照します。「しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」(ガラテヤ3:23-26)。

 この満ち足りた祝福に与っているからこそ、私たちは形だけを守るのではありません。神様による救いの喜びをいただいて、自らをささげて主に仕え、律法を全うすることができるのです「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。」(ガラテヤ5:13・14)。

第2回 「与えられている働き」 ローマ12:3~18

 多くの祈りと、協力をいただいて2月予算総会を終えることができ感謝します。それは始まりを意味しています。コロナ禍はなお続いていますが、新年度に向かって良い準備を進めていきたいと願っています。
 繰り返しになりますが、ローマ人への手紙の構造は魚の3枚おろしのようです。
第一部は1-8章「完全な救い・全幅の福音・救済論・教理の部分になります」これが魚の片身になります。
第二部は9-11章「イスラエルの救い・パウロは同胞ユダヤ人の救いを語ります・やや唐突な感じがしますがパウロの思いが強く出ています」これが魚の中骨になります。
第三部は12-16章「救われた者の歩み・キリスト教倫理・実践の部分になります」これが魚のもう一方の片身になります。この3つの部分からローマ人への手紙は成り立っています。

Ⅰ.救われた者の歩みの理念(3-5節)

 12章からは救われた者の実践、生活の在り方について語り始められています。1・2節は余りにも有名です「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」。この節は救われた者の生活の基本理念、憲章というべき箇所になります。この大きな前提の次に、3節から生活の実践が述べられていきます。教会はキリストの体である(エペソ1:23)と言われています。私たちが見える教会につながることは、教会の頭である見ることのできないイエス様につながることであるのです。さらにここでは、キリストの肢体(メロス、新改訳2017:器官、協会共同訳:部分)と言われます。私たちが体の各器官として働きを担っているのです。体は各器官の協調、協働によって成り立っています。ばらばらに動くのではなく、互いに組み合わされ、関係が重ね合わされて、初めて有効に動き始めます。思いあがらず、慎み深くとあるように、教会には互いを思いやる心が根本になければ協調はあり得ません。そこには、キリストの命による生命的なつながりがあるのです。神様が召し出された一人一人が必要であり、一人一人の働きによって成り立っているのが教会です。

Ⅱ.救われた者への恵みの賜物(6-8節)

 体の器官がその働きのために違っているように、神様が与えて下さっている賜物は異なっています(6節)。賜物(カリスマ)恵み(カリス)から来ている言葉です。自分が一生懸命準備するのではなく、他から与えられるから恵みです。与えて下さるのは神様であって、神様の深い御心があって備えられたものです。神様、私はこれではなく、あちらが良いですと神様に要求するものではありません。感謝して受け取るものなのです。ここには代表的な賜物が記されています(Ⅰコリント12章参照)。
預言は今日では説教で語られている言葉として受け止められています。
奉仕は教会の全ての働きを支えているものです。
教えは教会の土台を形づくって行くものです。
勧めは人を励まし強めることのできる言葉が語られることです。
寄附は財を持っている人が果たせる特別な働きになります。
指導は正しく人を導く訓育になります。
慈善は愛と慈しみに富んでいる人によってなされていきます。
教会の働きはこの7項目が全てではありません。これらの項目が基礎になって発展していくのです。賜物は恵みとして全ての信仰者に与えられています。賜物に優劣はありません。与えられたものに感謝し、人と比較して思い煩うこともないのです。賜物をタラントの譬えで1タラントの人がそうであったように、土に埋もれさせてはいけないのです。用いていく必要があります。賜物を考えていく上で決して忘れてならないことは、私たち全てにとって神様の最大の賜物は、イエス様ご自身(ヨハネ3:16)であるのです。私たちはイエス様という最高のものを神様からいただいた者として、神様の愛に感謝してお返ししていく者であるのです。

Ⅲ.救われた者の歩みの動力(9-18節)

 さらに、救われた者の実際の力となるものが列挙されています。賜物を用いていくための動力、エネルギー、基礎となっていくものです。当然のことでしょうが、愛は偽らないものです。愛は、打算や外見だけのものではありません。何を動機としているのか本質からのものが問われます。 兄弟の愛を持つことは、他者へのいつくしみと尊敬を持つものであるのです。霊に燃え、主に仕えるとは、人間の力、考えには限りがあるからこそ、無限である聖霊の力が必要とされることです。希望、忍耐、祈りは、どんな時にも有効です。私たちの不変の力となっていくのです。貧しい者を助け旅人をかえりみることは弱い人への視点を持ち続けることです。私たちに害を与える迫害者に対しての祝福が語られているのであれば、全ての人への祝福を私たちは願う者ということです。喜び、涙を共にすることは心を人に向けて共感を持ち、その人の立場に身を置くということです。高ぶった思いを持たず人から学ぶ思いを持ち続けることです。悪から離れ善を求めて行くことが語られています。平和を求めて行くことは説明の必要がありません。これらは神様の救いに与ったものとして当然のことばかりであるでしょう。私たちは改めて一つ一つを見返しながら、できていないこと、足りないことを示していただきましょう。

 救われた者の歩み、実践について見てきました。神様が語られています道徳、倫理は分っているが、分っていることと行っていることは違うものです。神様が私たちを愛して、イエス様を救い主として送ってくださいました。この御方を十字架にささげて下さっています。神の愛が注がれているからこそ、他者を愛する者になることができます。神様の愛によって神様に仕え、人に仕える者となることができるのです。

第3回 「仕え人への感謝」 ローマ16:17~27

 3月も後半となり本日が卒業祝賀壮行会、次週がCS卒業修了式となります。コロナ禍が続く大変な時期です。お一人一人の新しい出発のために心合わせて祈りましょう。ローマ人への手紙が続いて開かれてきました。8章、12章、今朝は最終の16章となります。ローマ教会への挨拶の部分です。ローマ人への手紙の本文は15章で終わりです。私は個人の色の濃い、この16章から説教を語ったことは無かったと記憶しています。しかし、当たり前のことですが今回、改めて聖書は全ての箇所、全ての言葉が私たちへのメッセージであることを教えられました。

Ⅰ.個々を顧みる(1-16節、聖書朗読では割愛しています)

 キリスト教会の歴史が約2千年、キリスト教会の地理はほぼ全世界に広がっていますから、私たちの知らない人物、知らない出来事は余りにも多いのです。しかし、キリスト教会の歴史、及んだ範囲の中で、使徒パウロ程、超人的な働きをした人物はいないと言えるでしょう。新約聖書の骨格を造った神学者、3回にわたる海外への伝道旅行・地中海世界の中心であったローマ行、幾多の教会を開拓した伝道者、多くの教会に心を配り・それぞれの場所に暮らす信徒の牧会者… パウロは力を注いで神様の働きの前進に奮闘しましたが、決して個人主義者ではありません。パウロの手紙を読んでいきますと、パウロの協力者、支援者、同労・同信の教師・信徒の姿が必ずあります。朗読が長くなるので割愛しましたが、本章16節までに少なくとも27(男性20、女性7)名の名前が感謝をもって挙げられています。3・9節に同労者と訳された言葉をパウロは13回自身の手紙に記しています。挨拶において、決して愛するローマ教会の皆様で一括りにしてはいません。一人一人を思い浮かべながら個別にその人への感謝と祈り、願いの思いを込めています。イエス様が良い羊飼いとして私たちを良く知られ、導かれている(ヨハネ10章参照)ことと同じです。一人一人の信仰を強め、正しく導き、魂が健やかであることへの配慮という牧会の一番の基礎がここにあります。

Ⅱ.全体を顧みる(17-20節)

 パウロはこのように一人一人を顧みていましたが、ローマ教会全体に向かっても勧めています。教会の中に、分裂やつまずきの原因となる者がいました。このことに危機を感じて17節からは強い言葉で語られています。それらの者たちは18節「自分の腹に仕え(直訳)」(新改訳2017「自分の欲望に仕え」)る者であると記されています。神様の御心を求めないで、自分の思いや求めを通そうとする者たちのことです。しかも、他人に対しては自分の欲望を剥きだしにしてはいません。18節にあるように「甘言と美辞」によってカモフラージュして騙しているのです。パウロの願いは19節「善にさとく、悪にはうとくあってほしい」ということです。即ち、賢くある、聡くあるということなのです。それでは、私たちが神様の願われる善、神様が嫌われる悪を見分けていくにはどうすれば良いのでしょうか。聖霊の助けによるしかないのです。ヨハネ16:8「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」。イエス様は十字架を目前にしておられました。まだまだ不足の多い弟子たちのことは大いに心配されていたと思います。弟子たちを置いて行かれるのですが、弟子たちに聖霊が降り、真理を教えて下さることは、イエス様がおられなくなったとしても働きを続けていくことの大きな力と保証になるのです。聖霊は私たちを教え、諭し、力を与えて御心に歩めるように励まして下さっています。パウロが最後に「善にさとく、悪にはうとくあってほしい」と語ることは、ローマ教会に向けての大きな願いでありました。

Ⅲ.目的を顧みる

 ローマ人への手紙は、救いとは何か、神の民として生きることはどういうことかが記されている大著です。ローマ人への手紙には豊かな内容が記されていますが、パウロが伝えようとしたことをあえて一つ挙げましょう。この手紙の初めと、終わりに同じ言葉が出てきます。最後の頌栄である25・26節「信仰の従順に至らせる」、最初の1:5にも「信仰の従順に至らせる」が記されています。信仰の従順とは、「信仰に始まり信仰に至らせる」(1:17)こととつながっています。私たちに与えられた信仰において、その広さ、長さ、高さ、深さ (エペソ3:18)を求めていくことなのです。私たちにとって信仰が何かの飾りではありません、眺める掛け軸でもありません。信仰は命を持ち、力となって、私たちを動かしていくものでなければ空しいのです。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。」(Ⅰヨハネ3:1)とあります。私たちを神の子として下さった神様の愛に、信仰で応えることが私たちの生きる目的そのものなのです。

 神様の愛に生かされ、この愛に応えて神様に仕える者となりましょう。