第3回 「本心に立ちかえって」

聖書 ルカによる福音書15章11節~24節

中心聖句 「そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。(ルカ福音書15章17節~19節)

 

 昨年11月に第2回「福音の本質」をお届けしてから早くも3ヶ月が経過しようとしています。この間、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を取り巻く状況も様々な点において大きく変わってきました。詳細な情報は皆様があらゆる媒体を通してキャッチしておられますので、ここに改めて取り上げることはいたしません。ただ一日も早くコロナ感染症が収束(終息)して、落ち着いた日常生活が回復するだけでなく、この度の経験を生かして、より良い共生社会が実現することを心から祈り願っております。

 敢えて私が「COVID-19」を通して再認識したことを言わせて頂くとすれば、「生命の価値」という、古くて新しいものであります。世間では「命か、経済か」という議論が取り沙汰されていますが、その議論の根底に「生命とは何か」という共通認識がない限り、議論は堂々巡りに終わってしまうことになります。コロナ禍の現状において最も重要な課題は「命か、経済か」ではなく、「命の尊厳」が問われていることなのです。

 聖書は「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイ16:26)と教えています。

 第1回は新約聖書のルカ福音書19章1節~10節に登場する「ザアカイ」という人物に焦点をあてて、「失われたもの」という主題でお話ししました。この主題は本文の結論が「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」という言葉に由来しています。ここでは人間は「神の愛から失われた存在、神の聖性から失われた存在、そして神の命から失われた存在」であったことを記しました。

 第2回は新約聖書のルカ福音書15章11節~24節に登場する「放蕩息子の父」に焦点をあてて、「放蕩息子を失った神」という主題でお話ししました。この主題は本文の結論が「罪人がひとりでも悔改めるなら、神の御使たちの前で喜びがあるであろう」という言葉に由来しています。ここでは「放蕩息子の自由意思を尊重する神、放蕩息子の帰宅を忍耐して待つ神、放蕩息子の帰宅を快く迎える神」であったことを記しました。

 第3回は「放蕩息子」本人に焦点をあてて、「本心に立ちかえって」という主題でお話しすることにします。この主題は本文の「本心に立ちかえって」という言葉に由来しています。この言葉はこの物語の筋道を大きく転換させる重要な言葉であり、放蕩息子の人生を大きく転換させた重要な体験でもあります。

一 放蕩息子の堕落

「放蕩息子の話」は「ある人に、ふたりのむすこがあった」という言葉で始まります。二人の息子は夫婦の愛の証として誕生した大切な命であって、両親が責任を持って養育すべき存在でした。二人の息子は何らの分け隔てもなく、両親の愛をいっぱいに受けて育てられたに違いありません。弟息子は決して生まれながらにして「放蕩息子」ではなかったのです。成人してから放蕩に身を持ち崩したために「放蕩息子」と呼ばれるようになったのです。因みに兄息子は生まれながらにして善良な人物であったかと言いますと、決してそうではありません。今回では兄息子には触れませんが、彼にも放蕩に陥る可能性は多分にあったことは容易に理解できます。ただ、この譬え話の中では、話を際立たせるために弟息子を「放蕩息子」に仕立てたという意味合いがあったことは確かです。それ以上に、この譬え話に説得力があるのは、この話が洋の東西を問わず、すべての歴史上において普遍的な事実であるからに他なりません。

一般に人間の本性に「性善説と性悪説」があります。性善説は孟子が主張したものであり、この教えに対して反対したのが荀子であると伝えられています。それでは聖書はどちらの立場に立っているのかと言いますと、次のように教えています。

 「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ3:23~24)

 ここに記されている罪とは「道徳上の罪や刑法上の罪=犯罪」ではなく、アダム・イブから連綿として引き継いでいる「不信仰の罪と偶像礼拝の罪=原罪」を意味しています。因みに不信仰とは「真の創造主を信じない」ことであり、偶像礼拝とは「偽りの偶像を信じる」ことであります。以上のような観点から、聖書は「性悪説」の立場に立っていると言えます。

 私は若い頃に、「人間は罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのである」と聞いたことがありましたが、非常に説得力のある言葉だと今でもしっかりと覚えています。人間は生まれながらにして罪人なのですから、自分で自分を救うことができないことは当然のことです。ですから神は神ご自身の責任において、罪のないイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架にかけ、その贖いの死によって、価なくして、ただイエス・キリストを信じる信仰によって、罪が赦され、神の子とされる道を開いて下さったのです。

 弟息子が放蕩の道に走ったきっかけは父親の財産に対する欲求が芽生えたことにありました。彼は成人に達したのでしょうか、「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」(12)と大胆に要求しました。父親は彼の要求に対して、〈財産を貰ってどうするのか、何に使うのか、君の人生計画はどうなっているのか〉というような理由を聞くこともなく、また親としての責任として当然言うべき注意のひとことも言わないで、ただ「息子の自由意思を尊重する神」の立場として「そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。」(12)のです。

 昔から「悪銭に身につかず」とか、「金と女には気をつけろ」と言われますが、弟息子の場合も同じであって、聖書は弟息子の放蕩の成り行きを淡々と「それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」(12)と記しています。

二 放蕩息子の改心

放蕩息子は「何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた」(12)のです。「泣きっ面に蜂」とはこのことです。いわゆる「踏んだり蹴ったり」のような状況に陥ってしまったのです。こうした場合「捨てる神あれば拾う神あり」というように、最悪の状況から一転して良い方向に向かう場合もあるのですが、彼の場合は最悪の状況に追い込まれてしまったのです。聖書は次のように記しています。

 「そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。」(15~17)

鹿児島県に「串木野さのさ節」という民謡があります。この歌は、薩摩半島の北西端、東シナ海に面した串木野港で漁師が酒席で歌ったものです。3節からなっていますが、その2節において「ハー 落ちぶれて、袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知る、朝日拝む人あれど、夕日を拝む人はない サノサ」と歌われています。荒れ狂う海に出かけて、命がけで漁をする漁師たちが、自分たちの運命と重ね合わせて、世間の悲哀をうたった名曲です。その意味は、自分の華やかな時は人は寄り添ってくるが、落ち目の時は人は相手にしてくれない、落ちぶれた時に初めて人の本心が分かる、ということです。この場合、人の本心とは、〈他人〉という意味と、〈自分自身〉という意味があります。

放蕩息子はとことん落ちぶれて人生の悲哀を感じたときに、幸いなことに彼は、本心に立ちかえることができたのです。「本心」とは、「本来の自分」という意味です。それでは「本来の自分」とは、何を意味しているのでしょうか。性悪説からいえば、「本来の自分」とは、「原罪を持った罪人」に過ぎません。しかし「原罪を持った罪人」に立ちかえったところで、そこから何の良いものが出てくるのでしょうか。「本心に立ちかえった放蕩息子」が、そこで思い浮かべたものは「父」であり、「父のところに帰ろう」という思いでした。

私はここで言われている「本心・自分自身」とは、堕落した人間の心に残された最後の砦としての「良心」であると考えています。放蕩息子にとっての「良心」とは、彼の生活が本来の自分とはかけ離れた状態であり、本来の自分とは、父親のところに帰ることであることを認識させた、「心の働き」であったのです。

罪の定義としてよく知られているのは、「罪とは、あるべき場所から逸脱して、あるべからざる場所に位置することである」という言葉です。まさしく放蕩息子の罪は「本来あるべき父親から逸脱して、あるべからざる遊興の地に位置したこと」にありました。

昔、私が児童教育について学んでいた頃のことですが、アメリカにおける事例を学んだことを思い出しています。ある少年が罪を犯して児童矯正施設に収容されていた際に、教官は当事者である少年を責めることに重点を置かないで、少年と向き合って子供の頃のことを思い出させるように仕向けます。子供の頃の楽しかった両親や兄弟たちや友達などとの生活を思い出させるのです。(勿論、そうした楽しい思い出を持たない少年もいることは確かですが・・)そして教官は少年に対して、「もう一度、そのような楽しかった生活に戻りたいか」と優しく語りかけます。少年が「戻りたいと」と願えば、あらかじめ別室で控えていた両親に会わせます。両親は両手を大きく広げて彼を迎え入れるのです。

放蕩息子は本心に立ちかえりました。人の無慈悲な本心ではなく、自分自身の情けない、本来あるべき姿ではない、惨めな自分に立ちかえったのです。そして同時に、自分とは全く異なる父の豊かさに気づいたのです。そして彼は心から悔い改めたのです。

「立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください。」(18)

 ここに放蕩息子の改心の4つのポイントがあります。

1 創造主に対する罪の告白

2 父に対する罪の告白

3 息子と呼ばれる資格の放棄

4 雇人一人同様の取り扱い

ここに悔い改めの必要にして十分な要素が含まれています。私たちが罪ゆるされて神の子とされることにおいても、私たちの取るべきことは、これ以上でもこれ以下でもありません。

三 放蕩息子の回復

 「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」(20~24)

放蕩息子が「本心に立ちかえった」ことは、単なる観念ではなく、本物であったことが実証されました。ここで注目すべきことは、彼は「そこで立って、父のところへ出かけた」ことです。つまり行動に移したことです。信仰は単なる観念ではなく、行動が伴うものなのです。もう一つは「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した」ことです。つまり、福音の本質は、人間の悔い改めが先行するのではなく、神の豊かな愛と赦しが先行するところにあるのです。

子供のころ、兄弟や友だちとのけんかの際には、「お前が先に謝れ、そうしたらゆるしてやる」とよく言ったものです。しかし、聖書の神はそうではないのです。放蕩息子に走り寄る神であり、罪人の悔い改めより先に赦して下さる神なのです。ここに「福音の本質」があります。それでは人間の悔い改めや罪の告白は必要がないのでしょうか。そうではありません。放蕩息子の場合も「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。」と悔い改めの告白をしています。

この放蕩息子の譬え話の結論は次のように記されています。

 「しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである。」(32)

最後に、福音の本質を最もよく表している聖句を紹介しておきます。

 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3:16)

 この言葉の中に福音の本質が5点にわたって集約されています。

1 「神は」 ここに信仰の対象である創造主である神が記されています。

2 「ひとり子を賜わったほどに」 ここに最高度の神の愛が記されています。

3 「この世」 ここに私たちが存在する世界の実態が記されています。

4 「御子を信じる者」 ここに救いの手段が記されています。

5 「永遠の命を得るため」 ここに人の命の尊厳が記されています。

 最初に、コロナ禍の現状において最も重要な課題は「命か、経済か」ではなく、「命の尊厳の意味」を、今こそ問い直すべきであると記しました。この「放蕩息子の話」は、まさしく、聖書がコロナ禍にあるすべての人に対して、「あなたの命の尊厳の意味」を問いかけているのです。

 これまで「福音の本質」について3回に亘って書いてきました。次回は「放蕩息子の兄」について書いてみたいと考えています。コロナ禍の中、くれぐれもお互い感染しないように注意いたしましょう。神の祝福をお祈りしています。それでは今回はこれにて失礼いたします。