第1回 「イエス様とのつながり」 ヨハネ15:1~11

 今年は礼拝説教で霊的な恵みと共に、学びの要素も取り入れる試みをしています。前回のテーマは「礼拝」でした。今、コロナ禍の状況で、礼拝が問われていますから時機に叶うテーマでした。今日からの「交わり」は、私たちが直接に会うことが難しい中で、交わりを考え受け止めいくことの大切さを思います。年間の説教計画に、その時の必要にかなった「主の山に備えあり」、神様の導きを覚えます。

Ⅰ.神様との交わり

 交わりとは、時間や行動、考えや思いを共有していくことによって生まれ、深まっていくことでしょう。同じ釜の飯を食う、苦楽を共にするという表現もあります。さて、聖書で最も有名な交わりを指す言葉は、新約ギリシャ語のコイノニアです。旧約聖書での交わりという意味合いに関しては、人と人との交わりは旧約聖書も新約聖書も時代を越えて同じです。旧約聖書における神様と人との交わりは、人は神様のしもべという立場が一貫して出てきます。神の友と呼ばれたアブラハム、神様と顔を合わせたモーセといった特別な存在はありますが、彼らもしもべという立場は変わりません。新約聖書では、イエス様がまず弟子を選ばれたように教師と弟子という師弟関係があります。イエス様は弟子たちに、その上で続く14節以下で弟子たちを友と呼ばれています。Cf.イエス様が私たちを友と呼ばれていることを賛美しているのが「慈しみ深き友なるイエスは」の歌詞になります。作詞者のジョセフ・スクライヴン(1819-1886)はこの1曲で名を残しています。人生の大きな痛手、嵐の中でイエス様の愛、慈しみ、慰めを記しました。D.L.ムーディーの専属歌手だったI.D.サンキーがこの曲を歌って世に広まりました。 … イエス様が弟子たちを友と呼ばれたのは、十字架が目前であって、弟子たちとの交わりが、師弟関係という枠を超えて、同じ地平に立つ強く深いものであるかを示されています。イエス様との交わりを最も良く表すのが、今日の「ぶどうの木」の箇所になります。  

Ⅱ.神様とつながる

 有名なぶどうの木の譬えですが、イエス様がぶどうの木、神様が農夫、私たちは枝です。光合成を行っている植物の原理は子どもたちも良く知っています。木は地面に根を張って水や養分を汲み上げ、枝は木から供給を受けて葉を繁らせ、太陽の光によって光合成を行い、エネルギーを蓄えて実を稔らせていきます。植物が地球全体の生態系、食物連鎖でどんなに大きな働きを担っているかは表し尽くせません。このつながりに脈々と生命が流れています。そこに成長があり、結実があります。水や緑がない砂漠に命は乏しいです。水や緑が豊かな場所に鳥は歌い、動物は生き、人が暮らしていく豊かさがあります。イエス様は木と枝がつながっている様子から、イエス様ご自身と私たちの根本の関係を示されています。植物の木が枝に送る水は、この譬えで霊的にはイエス様の命の水(ヨハネ4:14)「 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」です。植物が葉に受ける光は、霊的にはイエス様から受ける命の光(ヨハネ8:12)「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』。」です。私たちがイエス様とつながって命の水、命の光を受けるならば、霊的な実りを結んでいくことができるのです。

Ⅲ.神様がきよくされる

豊かな実を結んでいくために栄養、光が必要ですし、手入れが大切です。果樹園で農夫は次の収穫に向けて剪定をします。一つの枝が必要か不要か、どのように枝が成長して実が実っていくのかを農夫は考え、デザインして切り詰めていきます。農夫の働きの「きれいになさる」(2節)「きよくされている」(3節)とは、不要なものがない状態を表しています。不要なもの、相応しくないものがあるという状態は汚れていると言えます。霊的に不要なものは肉の働き(ガラテヤ5:19-21、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽)です。霊的なきよい実(同5:22-24、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制)をイエス様との交わりの中で、聖霊を通して結ぶことができる。枝が刈入れを受けることは、痛みを受けることでもあるでしょう。陶器師の中にある土くれ(エレミヤ18章参照)が形を変え、火を通され立派な器となります。純金は火で溶かされ、不純物が取り除かれ最も尊いものとされていきます(第一ペテロ1:7)。枝も自分で変わることはできません。自分をきよくすることはできません。神様の手によって不要なものが取り払われ、きよい実を結ぶことができるのです。私たちは恐れることなく、きよい神様の御手に委ねていくことが大切なのです。

私たちが持つことのできるイエス様との命ある交わり、イエス様との豊かさの交わりは、愛の交わり、喜びに満ちた交わりである(9-11節)。まず、イエス様とのつながりがあって交わりが生まれ、豊かにされていくことを覚えて、ここを出発点としてきよい実を結ぶ者となりましょう。

第2回 「神様にある家族」  エペソ2:14~22

 10月は聖餐月間として、できるだけ多くの方が礼拝と共に聖餐に与られることを願っています。今週、来週の2回となりましたが、次週25日はネット礼拝での聖餐式も準備しています。説教に学びの要素を取り入れることをテーマの一つとして進めてきました。「交わり」の第2回です。今のこの時、分散、遠隔、ディスタンスと言われますが、改めてクリスチャンが共に交わることの意味を考える良い機会でもあります。

Ⅰ.イエス様による平和

 平和というと、争いが無い穏やかな状態が思い浮かびます。先の戦争を省みて世界の平和を願う沖縄本島南部・摩文仁の丘の「平和の礎」、広島市の「平和記念資料館」は大切でしょう。人間同士の争いは残念ながら常にありますが、私たちは神様と人との関係についてまではなかなか思い至らないのです。聖書の平和とは旧約聖書ではシャロームであり、新約聖書ではエイレーネとなります。国と国、民族と民族、人と人だけではなくもっと大きな意味があります。神様と人との関係が大切な事がらとして含まれてきます。本章前半で人間は「生まれながらの怒りの子」(3節)とあり、新改訳2017では「生まれながら御怒りを受けるべき子」と訳されています。罪過、罪、自我を中心に生きてきた人間は、神様の怒りに触れているのです。そのままでは滅びに向かう私たちを、イエス様は十字架によって神様と和解させてくださいました(16節)。何よりもイエス様こそが私たちの平和なのです(14節)。イエス様は神様と私たちの間の平和となられ、人と人との間の平和となってくださいました。神様との和解・平和は、人との和解・平和を生み出していきます。平和の真中で互いを結び合わせるものが、神の義と愛が交わるイエス様の十字架に他なりません。神様の義が貫かれている縦の柱として、神様の愛が広がりのある横の棒です。  

Ⅱ.イエス様による家族

 私たちはイエス様の十字架によって神様との和解・平和を持つことができました。その実りとして、私たちは「聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族」(19節)とされています。私たちは永遠に至る神の国の国籍を持ち、父なる神様から神の子と呼んでいただける神様の家族の一員とされたのです。また1ペテロ2:9には、「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民」とあります。この箇所ではきよくあることが神の民の要件とされています。神の国の民は、聖なる者とされることによって、この世の闇や汚れと一線を引いた存在なのです。信仰の父アブラハムはこの世的には豊かであったとしてもヨルダンの低地には住まなかったのです。家畜を養う草や水が少なかったとしても高地のヘブロンに住み続けました。そのことによって、神様の豊かな祝福を受けました。神の家族について

イエス様は「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マタイ12:50)と言われています。この世の家族を越えた神様の家族として、御子イエス様を中心にして集うのが教会です。「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(1ヨハネ4:12)。教会に集うお互いは、神様によって召され選ばれた存在なのです。考え方や背景、性格、指向は違って当たり前です。主にあって共にある私たちが愛し合い、尊び合う中に神の国は表されていくのです。

Ⅲ.イエス様による建物

 神様との和解・平和による実がもう一つ記されています。私たちが神様の建物・宮を構成しているということです。イエス様の救いの恵みは使徒たち、預言者たちによって伝えられ、信仰の土台が据えられました。何より一番重要なのは、イエス様ご自身が隅のかしら石として不動の存在となられていることです。私たちは福音の恵みを受け継いで、建物として成長していきます。成長すると言う言葉は元々、植物、生物、人間に使われる言葉です。普通、建物には木、石、コンクリートや金属など構造物が用いられます。無機質を中心に作られ、そこに命はないので、当然のことながら生き物のような成長はありません。私たち神の家族が組み合わされた神の宮である教会は、命ある存在として成長していくのです。さらに驚くことには「主にある聖なる宮」(21節)の聖なる宮とは至聖所を表しています。大祭司でさえ年に一度、贖罪の日に供え物をささげるために入ることしか許されなかった聖なる場所です。教会は旧約聖書の至聖所を引き継ぐ尊い存在であるのです。私たち一人一人が聖霊を宿し、キリストが住まわれる聖なる宮であるということは、私たち自身も至聖所に与るものであるということなのです。

 イエス様の十字架によって神様との平和をいただき、神様の家族とされた私たちです。私たちは神様が引き上げて下さる日まで、神様の御住まいをこの地上に建て上げていく働きに与っているのです。

第3回 「平和をもたらす交わり」 第一テサロニケ5:12~28

 10月は聖餐月間として聖餐式を行ってきました。今日が最終になります。ネット上でも聖餐式を行います。これは大きなチャレンジなのですが、コロナ禍の状況で礼拝における実践神学そのものが問われています。実際の必要に応えていくために、新しい対応が生まれていくこととして受け止めています。

 学びのテーマ「交わり」の第3回となりました。この手紙の宛先のテサロニケ、現在のテッサロニキは、古来マケドニアを代表する町でした。東ローマ帝国の時代には首都コンスタンチノーブルに次いで2番目に大きな町であり、現在もギリシャ国内でアテネに次ぐ都市です。テサロニケ伝道は神様の御心であり、パウロの思いにもマケドニア地方の中核を担う意図はあったことでしょう。パウロはこの教会を愛していました(1:7-8他)。パウロの「兄弟たちよ」という呼びかけは、第一コリントでは19回、ローマでは10回、ずっと短いこの第一テサロニケで14回に及んでいます。パウロが持っていたテサロニケの群れへの愛、両者の交わりは深いものがあるのです。

Ⅰ.対人関係の勧め(12-15節)

 それぞれの教会にはそれぞれに個別の課題があります。上手に聞いていただきたいですが、人間と言う欠けだらけの存在によって組織されていますので、仕方がないという側面があります。しかし、しょうがないという諦めで閉じられて良いことではありません。パウロはテサロニケ教会にも存在していた具体的な課題と、課題を解決していく道を述べています。

 1)指導者に対して(12・13節)

  指導者とは牧師と受け止めていただいて良いですが、最初に「労し」と出てきます。これは大切な、第一とすべきものでしょう。指導者は労苦を厭わない者であるのです。私自身、いつもそうでありたいという願いが強くあります。指導というが言葉が出てきますが、指導は人の思いから出てくるものではありません。「主にあって」という言葉があってこそです。続く、訓戒も同様に「主にあって」という言葉のつながりにあります。指導者は主の御思いを深く知って働きを進めていかなければなりません。牧師と信徒、教会に信頼関係が生まれ、ここに「平和」の実が結ばれていきます。

 2)弱い者に対して(14節)

  教会は強い者だけの集まりではありません。何ら区別なく、心置きなく、あらゆる人が集まる場所です。テサロニケ教会には怠惰な者もあれば、小心な者もあり、弱い者もあったということです。戒めるべきものは戒め、励ましが必要なものは励まし、助けが必要なものは助けていくということです。弱さの中にある人たちを引き上げ、強め、促していく人を立ち上がらせる働きです。教会の中で誰もがそれぞれに与えられた使命に生きていくこと、自分の生活に責任をもって生きていくことでしょう。そのような生活によって、主が崇められていくことが目的、目当てなのです。

 3)お互いに対して(15節)

  教会の中でわざと人に悪を働かせることはないでしょう。何らかの不測の事態、すれ違いのような状態で悪を受けたと思えることがあるかも知れません。しかし、たとえ自分が悪を受けたとしても、悪をもって報いないことを神様は語られています。そうではなく、相手に対して善を求めて行くものであるのです(ローマ12:17以下、参照)。世の中では、相手を打ち負かすことが強いこととされているでしょう。聖書における強さとは、悪を働く人に対しても、その人の善を図ることが強さであるのです。  

Ⅱ.自分自身への勧め(16-22節)

 有名な聖書箇所です。個人で愛唱されている方も多いでしょうし、家訓のようにされている信徒家庭もあることでしょう。とても美しい響きの言葉であると感じます。しかし、これら一つ一つを実行していくことは難しいことです。私たちは喜びを持ち、積極的に祈り、感謝をささげることが出来る時も、喜べない時、祈れない時、感謝できない時もあるからです。聖書が言っているからと、そうあらねばならないと自らを打ち叩くのであれば、戒めや掟の律法主義になります。その後に「これが、キリスト・イエスにあって(の内に)、神があなたがたに求めておられることである。」とあります。自分ではなくイエス様により頼むことによってなされることなのです。キリスト・イエスの内にというイエス様の臨在が語られています。イエス様が私の内に住まれ、心も魂も変えられていくのです。私たちの心と魂の在り方が外に向かう動力となっていきます。喜び、祈り、感謝という姿勢は、主に委ねていく信仰、主の働きを求めていく信仰が大切なのです。

Ⅲ.全き聖化への勧め(23-24節)

 最後のしめくくりとしてパウロの祝祷と言うべき祈りです。「あなたがたを全くきよめて下さるように」との祈りは、続いて「霊と心とからだ」とあるように、全人的なきよめの業がなされていくことを願う祈りです。英語で聖なるを表わすホーリネスは、全体を表わすホールネスと同じ語源から来ています。テサロニケ教会への願いをパウロは(4:3)「神のみこころは、あなたがたが清くなることである。」、(4:7)「神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。」と記しています。新聖歌464『汚れと争いは』汚れと争いは、いつの世にか消ゆらん へいわの君イエスの 来たり給うまで絶えじ-を思い起こします。きよくされるという聖化が、やがて主が再び来られ、私たちが完全にあがなわれる栄化につながっていく(4:13以下、携挙の記事)のです。テサロニケ教会へのこの手紙は私たちがきよくされることによって、やがて再臨の主の前に立ちうることを願って記されている。

 神様との平和、和解は義認によってなされます(ローマ5:1)。救いに与っている私たちにも現実の戦いはありますが、神様は贖われた者を聖化、栄化へと導かれていくのです。やがてイエス様が再び来られる日に、完全な平和をもたらせられるのです。