第1回 「安息日と礼拝」 創世記2:1~3

 礼拝説教で学びの要素を含めて語っていますが、最初のテーマは「聖書」で3回話をしました。続いて「礼拝」に移ります。最初に礼拝の起源の一つとして、創世記2章にある天地創造の7日目の安息について見ていくことにしましょう。

1.7日間の創造

創世記1章は天地創造の6日間の記事になります。光あれから始まって、神のかたちに人間が造られ、6日間で全被造物は完成しました。神様は、全てを終えられ「はなはだ良かった」と満足され、7日目に休まれました。神様が休まれたのは6日間の作業で疲れられたのではありません。神様はうむことも、疲れることもない御方です。神様が休まれたという行動は私たちに示されたものであります。Cf.例を取り上げて考えてみます。イエス様は洗礼を受けられる必要があったでしょうか。罪を犯されなかった方ですから罪の赦しも必要なかったでしょう。神様への信仰を持ちました、これから信じていきますという信仰の表明もされる必要はなかったでしょう。洗礼を受ける必要のなかったイエス様が、公生涯の最初にヨルダン川で受洗されたのは、私たちにこうしなさいという、なすべき模範を示されたということです。

 … このように、神様が7日目に休まれたというのは、私たちにご自分の行動で教えておられることなのです。7日目に安息を持たれたということに特別の意味があります。日(ヘブル語:ヨーム)という言葉は、旧約聖書中1500回近く使われています。24時間の1日を表しますが、他にも昼間、特別な日、人生、時代、永遠など多くの意味を持つ言葉です。天地創造の7日間を文字通りの1週間と取るべきかは各論があります。後代に最も大きな影響を与えた教父のアウグスチヌスは「太陽によって区分された」日ではなく、「神によって区分された」日と言っています。日の長さがどうであったのかはともかくとして、7日目に安息を持つ、休みを持つことに重要性があるのです。

2.7日目の安息

7日目の安息は、創世記から時代が下って出エジプトの時代に明らかにされていきます。出エジプト記16章は、イスラエルの荒野の旅路40年間の主食となった天からのマナは6日間しか降らなかったことが述べられています。安息日には天からマナが降らなかったので、前日に2日分を集めなければなりませんでした。安息日だけは、取りおいておいても腐ることなく食べることができました。出エジプト記20章で十戒が授けられます。十戒の第4戒として「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と神様は命じられました。以来、ユダヤ人にとって1週の終わりである土曜日の安息日(シャバト、金曜日の日没から土曜日の日没まで)は揺るがせないものとなりました。現在も、安息日の細かな宗教儀礼は保守的なユダヤ人によって守られています。世界中に離散しているユダヤ人たちは、多様性、世俗化によって皆がそうであるとは言えなくなってきています。7日目の安息は単なる休息、休日ではありません。神様の祝福と聖別という特別な意味があります(3節)。神様は、天地創造の過程で、創世記1:22、28で祝福を授けられています。ここでの祝福は、生めよ、ふえよという繁栄の言葉でした。安息日の7日目の祝福は、何よりも聖別(カードシュ:分離するという意味。)とつながっています。安息日の礼拝の祝福は、世から聖別されている、分離されているということによるのす。

3.7日間の主

ここまでの土曜日の安息日に礼拝をささげるという話に違和感を覚える方は多いでしょう。私たちの礼拝の大きな転換点は、私たちの救いにつながっているイエス様の十字架と復活にあります。元々、イエス様はご自分を「安息日の主」(マルコ2:28)と言われています。イエス様が十字架で全人類へのあがないの死を遂げられた後に、復活されたのが「1週の初めの日」(ヨハネ20:1)です。イエス様がよみがえられた、この日(日曜日)を主の日(黙示録1:10)として、初代教会では礼拝をささげるようになりました。この伝統によって、日曜日を主の日として礼拝がささげられるようになりました。日曜日を礼拝の日とすることが西欧社会、近代社会に定着して行ったのです。日本でも日曜日に休むのは文明開化に取り入れられて以来の話になります。私たちは現在、日曜日に礼拝堂、ネット視聴、家庭での礼拝をささげています。共に、一つになってささげる礼拝は公同性を表しています。先のマルコ2:28では「人の子は、安息日にもまた主なのである。」と言われています。これを読み取ると、イエス様は全ての日の主なのです。ともすれば、私たちはイエス様を日曜日のみ、礼拝の時間のみの主としてはいないでしょうか。安息日、主の日の礼拝にイエス様を主とすることは当然のことです。さらに進んで、どんな時でも、いつでもイエス様にまみえて歩む私たちでありましょう。

礼拝は、それまでの旧約聖書の規程を越えて、イエス様の十字架と復活によって大きく変化しました。また、同時に創世記から、安息を持つ精神は変わらないものがあります。祝福された日、聖別された日に、祝福された礼拝、聖別された礼拝を真の神様にささげることができるのは、神の民としての最高の恵みであることを覚えましょう。最初の完成である天地創造が、安息日の礼拝でしめくくられていったように、終末の完成である新天新地が来たる時に、そこで神と小羊への礼拝がささげられます。聖書は礼拝から始まって、礼拝で閉じられていくことが解ります。その間に私たちも礼拝者として生きているのです。

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2020年度 荻窪栄光教会礼拝「礼拝」
2020.7.26(日) 創世記2:1~3
礼拝について・第1回「安息日と礼拝」学びのためのシート
井上義実

1) 7日間の創造(創世記1:1~2:3)

  日:へブル語・ヨーム、旧約聖書中1500回近い頻出の言葉。意味は1日、昼間、特別な日、人生、時代、永遠など多岐に渡る。天地創造の1日を文字通り24時間とするかは各論あって確定しない。アウグスチヌスは「太陽によって区分された」日ではなく、「神によって区分された」日と言っている。日の長さ、期間は余り重要ではない。

  =神様は全てに秩序があり、整えられた美しさをもたらされた。=

2) 7日目の安息(創世記2:1~3)

天地創造の7日目の安息は明らかである。
実際に7日目の安息について出てくるのは出エジプト記に至ってからである。
出エジプト記16章マナを集めるのは6日目まで。2日分を集めることになる。
出エジプト記20章十戒の授与、第4戒。
土曜日の安息日(シャバット)はユダヤ人にとって最重要になる。タルムードによる安息日の禁止事項(メラハー)は39項目。

  =「第七日を祝福して、これを聖別された。」世から潔め分かたれた日である。=

3) 7日間の主

 安息日・土曜日礼拝から、主日・日曜日の礼拝へ。
 イエス様の十字架と復活による大転換。復活が1週の初めの日に起こり、主日となる。
 安息日にもまた主なのである。」イエス様は主日のみならず全ての日の主なのである。

  =主日に公同の礼拝を共にささげ、日々主を拝して歩む私たちである。= 

第2回 「なすべき礼拝」 ローマ12:1~2

 今年の説教のテーマの一つとして、学びつつ御言に聞いていきましょう。前回は、「礼拝」の第1回でした。創世記2章の初めから、創造の7日目の安息について語りました。今日はローマ12:1~2が開かれてきています。礼拝と聞いて最初に思い浮かべる御言の一つでしょう。ローマ人への手紙は構造が大きく3つに分れます。第1部は、1~8章で完全な救いについての教えです。第2部は、9~11章はパウロの同族イスラエルの救いが語られています。第3部は、12~16章で信仰生活の実際、実践が述べられています。Cf.ローマ人への手紙の3部構造は、魚の3枚おろしに似ています。… 開かれてきました12章からが信仰生活の実践に当たります。信仰生活の最初に礼拝が出てくることは、礼拝こそが信仰生活の第一であり、中心とされることを示していることなのです。

1.神様の愛ゆえのあわれみ

 最初に「神のあわれみによって」とあります。礼拝は神様のあわれみによってささげられることが表わされています。神様があわれみ深い御方なのは聖書全体が示しています。あわれみという言葉を探って行くと、意味合いとしてはいつくしみという言葉が近いですが、恩恵、恩寵という古い言葉に行き当たって行きます。出エジプト34:6には「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、」とあります。礼拝から考えてみますと、私たちが神様と出会う前は礼拝からは遠かった者です。礼拝には相応しくなかった者でした。そのような私たちに、神様はイエス様をこの世に送られ、十字架の贖いの死によって、私たちを神の子とする道を開いて下さったのです。神の子とされて、私たちは礼拝の民に変えられた者です。神様の前に、立場、身分が変えられたのです。へブル4:16には「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」とあります。神様のあわれみがあるからこそ、私たちは礼拝に与ることができるということを決して忘れないでいましょう。 

2.神様の愛によるすすめ

 続いて「あなたがたに勧める」とあります。敬虔主義の聖書学者である17~18世紀のベンゲルは、「モーセは命じ、使徒は勧める」と言っています。モーセに代表される律法は命令を守り従うこと、使徒に代表される福音は私たちの自発的な応答を求めています。決められて、強いられてではなく、喜んで礼拝をささげる姿勢が勧められています。それでは、喜んで礼拝をささげる動力は何なのでしょうか。それは、先にお話しましたように神様が私を愛して下さり、私に救いを成就して下さったという事実にあります。1ヨハネ4:10には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」とあります。喜んで礼拝をささげる力は、神様の愛に感謝する、神様の愛に対する応答です。私のような者が救いの恵みに与ったという喜びや感謝は、新約聖書で見るならばレギオンに取りつかれていた男、マグダラのマリヤ、エリコのザアカイなど多くの人々に見ることができます。律法によって認められることは規定を守ることにあります。それでは、守っていればよいという、真心が伴わなくなりやすいものです。福音が求めているものは、自分からの応答を表していくことなので心を込めることが求められています。私たちは、神様の愛を受けて、救われた者として、真心からの礼拝を常にささげるものでありましょう。 

3.神様の愛に応える供え物

 喜んでささげる礼拝は、喜んでささげる供え物が伴います。礼拝での祈り、賛美、献金に始まり、ほぼ全てにささげる要素が含まれています。ここには「あなたがたのからだを」とあります。からだとは肉体という意味を越え、私たちの存在、生活全てを指しています。私たちの普段の全てが礼拝に結びついているということです。自らをささげた礼拝者の存在は、周囲の人々に感化を与えていきます。Cf.信仰が明確でなかった頃に出会ったご高齢の兄弟。私はこの方と出会ったから、今ここにあるという方の一人です。… この礼拝によって私たちは新たにされ、御心に生きていくことができます。2節「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」。週毎の礼拝は習慣、儀礼ではありません。私たちが新たな思いをもって臨んでいく時に、私たちを新たに造り変えて、御心に生きる者へと導くのです。

今、礼拝をささげる環境は厳しい時です。このような時にこそ、神様の愛に立ち返りつつ、礼拝を喜んでささげていきましょう。

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2020年度 荻窪栄光教会礼拝「礼拝」
2020.8.16(日) ローマ12:1~2
礼拝について・第2回「なすべき礼拝」学びのためのシート
井上義実

説教では取り上げない細かなことを書いておきます。

1) ローマ人への手紙の構造

  パウロ書簡の中でも神学的な意味合いでは最重要の手紙の一つと言える。
  内容は大きくこのように分れる。

  第一部 救済論

  1:1~17    前書き、あいさつ
  1:18~3:20 人間論・罪悪論 人間とはどのような存在か、罪とは何か。
  3:21~5:21 義認論 信仰によって義とされる(義認)こととは
  6:1~8:39  聖化論、栄化論 聖なるもの、栄光の姿に変えられる全き救い

  第二部 宣教論

  9:1~11:36   同胞イスラエルの救い パウロの痛みであった同胞の救い

  第三部 実践論

  12:1~15:13  キリスト教倫理 信仰生活の実践
  15:14~16:27 後書き、あいさつ

2) 12:1の翻訳の違い

【口語訳】兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

【聖書協会共同訳】こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。

【新改訳2017】ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

「口語訳」霊的:ロギコス、霊的とも理屈にかなったとも訳せる言葉であり両訳が存在する。「新改訳2017」ふさわしいはやや中間的な訳ともとれる。 

第3回 「霊と真理による礼拝」 ヨハネ4:19~26

 礼拝について、創世記2章の7日目の安息について、続いてローマ12:1~2の「なすべき霊的な礼拝」が開かれました。今朝はヨハネ4章「霊とまこととによる礼拝」が導かれてきた。礼拝の金言のような箇所が続いています。近づきました29・30日の神学校アウトリーチ「礼拝学」の露払いとなればと願っています。

1.全ての人への救い

 サマリヤのスカルの町外れの井戸辺で、イエス様と一人の女性との出会いから話は始まっていきます。イエス様はこの女性との出会いを願われていたに違いありません。(4節)「イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。」とあります。イエス様とこの女性は多くの点で隔たっていたと言えるでしょう。1.ユダヤ人とサマリヤ人、民族の違いがあります。2.男性と女性、性の違いがあります。3.ラビと民衆、立場・働きの違いがあります。4.ラビと女性の生活、律法に従って生きているのか、いないのか。外聞の評価の違いがあります。Cf.アメリカの大統領選挙のニュースを毎日聞きます。トランプ大統領は対立や分断をあからさまに語り、票集め・票固めに利用しているように思えます。しかし、聖書では人の違いというものは、神様が一人一人をユニークに造られている証拠です。まず違いを認め、そこから融和や一致が生まれていきます。 … ここで人から、あの女性は私たちとは違う、ふしだらとさえ思われていた女性の受け答えは、驚くほど知的、霊的です。イエス様はこれらの区分、差別が偏見であることを示されています。この女性は永遠の命に至る水(14節)をイエス様から教えられて、直ぐさま求めています。イエス様はこの女性にも、私たち全ての人にも、やがて架かられる十字架の贖いを通して命の水を注いで下さっています。この女性に多くの隔たりがあるかに見えていたとしても全く問題になさらない。イエス様の救いが、誰に対しても完全であることが解ります。

2.全ての人への礼拝

 ユダヤ人の礼拝の象徴はエルサレムの神殿です。サマリヤ人の礼拝の象徴は(20節)「この山」ゲリジム山の神殿を指しています。ユダヤ人、サマリヤ人には互いに反感がありました。この女性はイエス様から命の水をいただき、全ての隔てが押し流されて、イエス様による救いに与りました。サマリヤ人の女性の救いは、全ての人の救いのためにイエス様が来られ、礼拝もエルサレムの神殿、ゲリジム山の神殿という特定の場所のものではなくなったことを指し示しています。全ての人への救いは、全ての場所での(23節)まことの礼拝につながっていきます。ZOOM祈祷会ではパウロの獄中書簡を開いてきました。パウロが不自由な制約の中で多くの教会、多くの信徒たちに向けて語り続けた言葉を読んできました。パウロは獄中で礼拝を守ったということでしょう。

日本でも80年前の戦時下、ホーリネス教会の牧師たちは一斉検挙を受けて、教会は解散、7名の先生方が殉教されました。獄中の礼拝を一人でささげられた牧師、解散させられた教会は個人で礼拝を守ったことでしょう。米田豊師の獄中の感は有名です。「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。今、私たちもコロナウイルス禍の非常事態で、礼拝堂での礼拝、インターネット視聴での礼拝、静まっての家庭礼拝の3つの形になっています。一つに集まりたいと願っても難しい中で最善の形を模索しています。コロナウイルス禍の間も完全に守られて、今後の歩みが示されていくように祈っています。

形はそれぞれであったとしても、まことの礼拝の条件は、(23節)「霊とまこととをもって」ささげられる礼拝です。この「まこと」(アレテイア:真理・真実)は、人間の真心と受け止められやすいのです。しかし、人間の真心、誠実さではなく神様の真理を表しています。霊をもってとは、私たちの礼拝が見える形だけではなく内なるものが神様にささげられている礼拝であるということです。まことをもってとは、神様の真理に寄り頼んで神様にささげられている礼拝であるということです。神様にささげられる真実の礼拝です。

3.全ての人への宣教

この女性は町の人々にイエス様のことを伝えました。彼女が渇きつつ、長く求め続けてきたものに出会ったからです。町の人々は続々と、イエス様のもとに集まってきました。全ての人への救いは、全ての人の礼拝につながっていきます。全ての人の礼拝は、全ての人への宣教へとつながっていきます。イエス様はこの出来事が良く解っていない弟子たちに刈り入れの時が来ていると語られました。弟子たちはサマリヤをなぜ通らなければならないのか、見ず知らずの一人の女性と話をしなければならないのか、疑問だらけだったことでしょう。しかし、一人の人の真実の救いは、一人の真実な礼拝者を生み出し、真実な礼拝は熱心な宣教へと結びついていくのです。(14節)「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。神様によって湧き上がるものは周囲を潤していきます。

 救いは個人から始まり、救いは共同体の礼拝となり、礼拝から宣教は全地に向かって送り出され、広げられていきます。

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2020年度 荻窪栄光教会礼拝「礼拝」
2020.8.23(日)ヨハネ4:19~26
礼拝について・第3回「霊と真理による礼拝」学びのためのシート
井上義実

1) ユダヤ人とサマリヤ人の対立

分裂王国時代に端を発する

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ユダヤ人
南王国ユダ ユダ・ベニヤミンの2部族
初代レハベアム王から20代
首都エルサレム、エルサレム神殿
モーセ五書
BC.586年エルサレム陥落(対バビロン)

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サマリヤ人
北王国イスラエル 10部族
ヤラベアム王から19代
首都サマリヤ、ゲリジム山神殿
サマリヤ五書
BC.722年サマリヤ陥落(対アッシリヤ)

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南王国ユダはダビデ家の直系を残すと言われただけあって、アサ、ヨシャパテ、ヒゼキヤ、ヨシヤなど神様に従った王たちも出た。北王国ユダはシドンのイゼベルを妃としたアハブ王を始めとして不信仰と偶像礼拝に陥った。北王国が先に滅んだことは真の神様への背信と無関係とは言えないだろう。

北王国イスラエルの占領期間は南王国ユダより長期に及び、アッシリヤの占領政策も植民地化、異民族支配を進めた。後にバビロン捕囚として捕えられたユダよりも混血、異文化が進んだのでユダヤ人のサマリヤ人への蔑視は強かった。

2) 4:24の翻訳の違い まこと:アレテイア

【口語訳】神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。

【聖書協会共同訳】神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。

【新改訳2017】神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

第4回 「神様への応答」 エペソ5:15~21

  礼拝について語ってきました。昨日から神学校アウトリーチ「礼拝学」も始まりました。川原﨑晃先生がZOOMで講演くださっています。本日午後3時からは第2回となります。豊かな内容で語って下さっています。昨日出られなかった方々も、この午後恵みと学びの機会としていただきたいです。教会の礼拝に出ておられない、教会外の人たちには、礼拝とは心静める時、心清らかに過ごすというような静的な印象が強いのだろうと思えます。礼拝に静けさ、厳粛さは当然のことでしょうが、礼拝は受身・受動的なものだけではありません。礼拝は応答・能動的な動的なものでもあります。礼拝には神様から人に賜る、与えられる、呼び出す働き(call)、人が神様に応えて供える、ささげる、応答する働き(response)が織り込まれています。神様と人という双方向の働きがあります。Cf.誰しも忘れがたいプレゼントがあろうかと思います。人同士であっても真心が喜ばれるように、神様は私たちの真心を喜ばれるでしょう。今日は、私たちが神様に感謝をもって応答する祈り、賛美、献金を取り上げていきます。

1.神様への応答である祈り

 礼拝の中で語られる神様の言葉(Wort)が説教です。それに対して、人間の言葉として応答(Antwort)されるのが祈りです。式順序の中での違いはあります(開会祈祷、牧会祈祷、応答祈祷、感謝祈祷)が、祈りの要素は5つの項目を上げることができるでしょう。
1)賛美・真の神様のみを崇める祈りです
2)感謝・私をも救ってくださった神様の愛に対して感謝の祈りです
3)悔い改め・自らを省み神様にお詫びすることがあるならば素直に認める祈りです
4)願い祈り・信仰の熱心さをイエス様は説かれています(ルカ11・18章参)神様は熱心な求めに応えられますから祈りましょう。
5)執り成し・プロテスタントは信仰者が万人祭司であり、誰もが他者を執り成す祭司として祈れるのです。祈りには、神様の前に立つ私たちの信仰姿勢が込められています。最後の祝祷は、閉会の祈りではありません。私たちが戦いに満ちた1週の旅路に派遣されるために、会衆が聖別されるための祈りです。礼拝祈祷には定型がありますが、同時に信仰による自由も含まれる祈りです。

2.神様への応答である賛美

 教会音楽を語るには乏しい者です。旧聖歌の中表紙にエペソ5:19が記され、中田羽後師の聖歌の理念であると受け止めています。不足の分は補って下さい。賛美は私たちが普段から接しているものとして、キリスト教美術や、キリスト教建築以上に身近さをもってキリスト教的伝統の豊かさを表しています。旧約聖書中、モーセ、ハンナ、イザヤ、ハバクク等の賛歌があります。何より詩篇は本来朗唱するものですから歌として捉えるべきものです。新約聖書にもクリスマスを巡る賛歌、書簡には初代教会の賛美の断片等が出てきます。聖書は旧約聖書の時代から聖歌隊、器楽の演奏についても多く言及されています。ユダヤ教からの伝統、東方教会・西方教会の発展、プロテスタントの興隆、… 歴史上、宗派、教派、文化、社会の違いが大きく、賛美は多様性に富んでいます。へブル人への手紙はイエス様の十字架のあがないの死によって、旧約聖書の動物の犠牲が過去のものとなったことを記しています。イエス様が私たちの救いを成就してくださった以降の賛美は、(へブル13:15)「だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。」に表されています。動物の命や血がささげられるのではなく、私たちの感謝が賛美となってささげられることを神様は喜ばれています。

3.神様への応答である献金

 献金は礼拝者が感謝と献身の応答を込めてささげる供え物です。旧約聖書のささげ物に触れると、
1)燔祭・レビ1:1~、燔は焼く、全焼のいけにえ。
2)素祭・レビ2:1~、穀類・農耕の供犠。
3)酬恩祭・レビ3:1~、感謝の自発の供え物、神様との平和の語義。
4)罪祭・レビ4:1~、贖罪のために。
5)衍祭・レビ5:14~、過失の償い、賠償。
以上の5種類があり、素祭以外は犠牲の動物がささげられました。さらに細かい規定が出てきますから時間内に説明し尽くすことができません。それだけ、神様との関わり・交わりが密接であったことを表しています。表面的なつながりではなく、人格的な交わりがあったことがよく解ります。イスラエルの民が神様から離れていくことが、神様にとっての大きな痛みであったのです。新約聖書に至って、イエス様は世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)として来られました。十字架において永遠に全うされたささげ物(へブル10:14参照)となられたのです。最も尊い犠牲の血を注いでくださった神様の愛を前に、私たちは応答せざるを得ないものです。

旧約のささげ物においても傷もしみもない動物が必要だったように、神様は私たちに真心からの応答を願っておられます。神様が天の窓を開かれる、恵みを注がれることを信じてささげるものです(レビ27:30~、マラキ3:10)。Cf.先週もある方が、数年前にささげるつもりであった献金を、遅くなりましたがささげますとおっしゃられて送金された方がありました。

 私たちは自然に礼拝をささげると言います。礼拝をささげる意味を考え、ささげるに相応しい者となりましょう。私たちの真心を主は喜んで受けて下さり、恵みを注いで下さる御方です。